第112回 ゼロがゼロである理由(後編)

「ゼロの次は何を作るの?」とユーリは言った。
登場人物紹介
:数学が好きな高校生。
ユーリのいとこの中学生。のことを《お兄ちゃん》と呼ぶ。

$ \newcommand{\MATAWA}{\mathrel{\text{または}}} \newcommand{\KATSU}{\mathrel{\text{かつ}}} \newcommand{\LEFTRIGHTARROW}{\quad\Longleftrightarrow\quad} \newcommand{\LEFTARROW}{\quad\Longleftarrow\quad} \newcommand{\RIGHTARROW}{\quad\Longrightarrow\quad} $

僕の部屋

ユーリは《行列》について話している。

「これで、行列の相等( $=$ )と和( $+$ )と差( $-$ )が定義できて、零行列 $\left(\begin{array}{cc} 0 & 0 \\ 0 & 0 \end{array} \right)$ も定義できたね(第111回参照)。 つまり、これで、等しいかどうかを調べることと、 足し算と、引き算ができる《数のようなもの》を作ったことになる。 ゼロも作った」

ユーリ「にゃるほど。ねえ、じゃ、次は? 次は何を作るの?」

「それはもちろん、アレだよ」

ユーリ「そっかー、アレかー……アレって何?」

「行列の世界で《 $0$ に相当するもの》として零行列を作ったから、次は《 $1$ に相当するもの》を作ろう」

ユーリ「ゼロ行列じゃなくて、イチ行列?」

「壱行列とは言わなくて、ふつうは単位行列というよ」

ユーリ「たんいぎょうれつ……これは簡単だよね。成分をぜんぶ $1$ にすればいいんでしょ?」

これが単位行列なの?
$$ \left(\begin{array}{cc} 1 & 1 \\ 1 & 1 \end{array} \right) $$

「ユーリは、どうしてそう思ったんだろうか」

ユーリ「お兄ちゃんは、どーしてそー聞き返したんだろーか」

「何?」

ユーリ「いや、今回の聞き返しはユーリがまちがったから? それとも、ほんとに理由を聞きたいから?」

「その両方」

ユーリ「え、 $\left(\begin{array}{cc} 1 & 1 \\ 1 & 1 \end{array} \right)$ はまちがいなの?」

「うん、残念ながら、それは単位行列じゃない」

ユーリ「だって、零行列のときは成分が全部 $0$ だったじゃん?」

「そうだね」

零行列はすべての成分が $0$
$$ \left(\begin{array}{cc} 0 & 0 \\ 0 & 0 \end{array} \right) $$

ユーリ「だったら、単位行列は $1$ みたいなものなんだから、成分が全部 $1$ になるんじゃないの?」

「そこだよ。そこで重要な問いかけが出てくる。さっきは『ゼロって何だろう』という問いかけだった(第111回参照)。 今度は『イチって何だろう』という問いかけになる」

ユーリ「ゼロは、足しても変わらないものだった。イチは、足したら $1$ 増えるものでしょ?」

「うん、そう考えることも可能だね。そしてそう考えると、ユーリが $\left(\begin{array}{cc} 1 & 1 \\ 1 & 1 \end{array} \right)$ をイチにしたくなる理由もわかる。 $\left(\begin{array}{cc} 1 & 1 \\ 1 & 1 \end{array} \right)$ を加えると、行列の成分がぜんぶ $1$ 増えるから」

$$ \left(\begin{array}{cc} a & b \\ c & d \end{array} \right) + \left(\begin{array}{cc} 1 & 1 \\ 1 & 1 \end{array} \right) = \left(\begin{array}{cc} a+1 & b+1 \\ c+1 & d+1 \end{array} \right) $$

ユーリ「そー考えたんだけど」

「そう考えることももちろん可能だよ。でも、それは少しつまらないともいえる。 それだと、行列が数と同じふるまいしかしなくなるから」

ユーリ「じゃあ、何がイチなの?」

「こんなふうに考えてみよう。《どんな数にゼロを足しても変わらない》と同じようにして、 《どんな数にイチを掛けても変わらない》というふうにね」

ユーリ「ほほー! なーるほど。足し算じゃなくて掛け算?」

《ゼロとイチ》(数の場合)
$$ \begin{align*} a + 0 &= a && \text{どんな数にゼロを足しても変わらない} \\ a \times 1 &= a && \text{どんな数にイチを掛けても変わらない} \\ \end{align*} $$

「そうだね。こんなふうにも言える。《足し算にとってのゼロ》は、《掛け算にとってのイチ》」

ユーリ「お兄ちゃん、ちょっとかっこいい……あれ?、ちょっと待ってよ。《掛け算にとってのイチ》はいーんだけど、 それだったらユーリがさっき答えた $\left(\begin{array}{cc} 1 & 1 \\ 1 & 1 \end{array} \right)$ で正解じゃん? だって、 成分に $1$ を掛けたら変わらないよ?」

「あ、いやいや、そうじゃないんだよ。行列の積は成分ごとの積じゃないんだ。 行列の掛け算……行列の積はまだ定義してなかった」

ユーリ「じゃ、早く定義して!」

行列の積

「二つの行列 $\left(\begin{array}{cc} a & b \\ c & d \end{array} \right)$ と $\left(\begin{array}{cc} s & t \\ u & v \end{array} \right)$ があったと考えよう」

ユーリ「考えたくない」

「がく。何を言い出すやら」

ユーリ「お兄ちゃんは数式のまじゅちゅち……まずちゅし……数式の魔法使いだからいーかもしれないけど」

「魔術師」

ユーリ「数式の魔法使いだからいーかもしれないけど、いきなり $a,b,c,d,s,t,u,v$ とかやめてほしー」

「やめてほしいといわれても……わかった。じゃあ、こうしよう。二つの行列 $\left(\begin{array}{cc} a & b \\ c & d \end{array} \right)$ と $\left(\begin{array}{cc} a' & b' \\ c' & d' \end{array} \right)$ があったと考えよう。 $a,b,c,d$ と $a',b',c',d'$ はぜんぶ何らかの数だよ」

二つの行列
$$ \left(\begin{array}{cc} a & b \\ c & d \end{array} \right) \quad \text{と} \quad \left(\begin{array}{cc} a' & b' \\ c' & d' \end{array} \right) $$

ユーリ「うん。これならなんとか」

「それはよかった。この二つの行列の積を、こんな式で定義する。二つの行列を並べて積を表すよ」

行列の積を定義する
$$ \left(\begin{array}{cc} a & b \\ c & d \end{array} \right)\left(\begin{array}{cc} a' & b' \\ c' & d' \end{array} \right) = \left(\begin{array}{cc} aa'+bc' & ab'+bd' \\ ca'+dc' & cb'+dd' \end{array} \right) $$

ユーリ「うわ、手加減なしかー。何この式のラレツ!」

「定義に手加減もなにもないよ。いっぺんに全部みるとわけがわからなくなるから、 成分を一つ一つ見てみよう。まず、これ」

ユーリ「ははー。 $a$ と $a'$ を掛けて、 $b$ と $c'$ を掛けてる……?」

「そうだね。そして $aa'$ と $bc'$ を足す。行列の積で基本になる計算は《掛けて、掛けて、足す》という計算だよ。 ここでは、 $aa' + bc'$ に《掛けて、掛けて、足す》という形が出ているね」

$aa'+bc'$ の《掛けて、掛けて、足す》

ユーリ「《掛けて、掛けて、足す》……ふんふん?」

「二つの行列を掛けたときに、左側の行列では《行》をまとまりとして見る。右側の行列では《列》をまとまりとして見る。 そして、成分同士について《掛けて、掛けて、足す》という計算をするんだよ」

$aa'+bc'$ がどうやってできたか

ユーリ「……ふふーん、だいぶ《見えて》きたよ」

「それはすごいな。お兄ちゃんは、行列の積を初めて見たとき、この計算に慣れるまで時間が掛かったよ」

ユーリ「左目を横に動かして、右目を縦に動かして見れば、簡単だもん!」

「いやいや、それは人間には無理だから!」

他の成分

「他の成分もまったく同じに考える。たとえば、 $ab'+bd'$ はこうやって計算する」

$ab'+bd'$ がどうやってできたか

ユーリ「ほんとだ……でたらめに式を書いたんじゃなかったんだね!」

「そりゃそうだよ。次に $ca'+dc'$ はこうだよ」

$ca'+dc'$ がどうやってできたか

ユーリ「もーわかったよ」

「そして、最後に $cb'+dd'$ はこう」

$cb'+dd'$ がどうやってできたか

ユーリ「わかったって!」

「じゃ、試しに計算してみようか。行列の掛け算練習」

問題
次に示す行列の積を計算してみよう。
$$ \left(\begin{array}{cc} 1 & 2 \\ 3 & 4 \end{array} \right)\left(\begin{array}{cc} 1 & 3 \\ 2 & 0 \end{array} \right) $$

ユーリ「掛けて、掛けて、足す……」

(あなたも、やってみましょう!)

「どう? できた?」

ユーリ「できたできた。目と頭がごちゃごちゃしてきた」

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数学ガールの秘密ノート

結城浩

数学青春物語「数学ガール」の中高生たちが数学トークをする楽しい読み物です。中学生や高校生の数学を題材に、 数学のおもしろさと学ぶよろこびを味わいましょう。本シリーズはすでに13巻以上も書籍化されている大人気連載です。 (毎週金曜日更新)

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DJ_ACT #数学ガール営業部部活動 こちらは2018年秋「行列が描くもの」に収録予定です! あと36分! 5年以上前 replyretweetfavorite

DJ_ACT #数学ガール営業部部活動 こちらは2018年秋「行列が描くもの」に収録予定! この機会に是非! 5年以上前 replyretweetfavorite

hyuki 『数学ガールの秘密ノート』過去記事の無料リンクをツイート。公式 【06/13 14:12まで無料 】 https://t.co/Pl79e2A0BH https://t.co/G9BLbJctBs 5年以上前 replyretweetfavorite

DJ_ACT #数学ガール営業部部活動 こちらは2018年秋「行列が描くもの」に収録予定です! 5年以上前 replyretweetfavorite