フロントに置かれている古いパソコンは、電源スイッチを押すと入れっぱなしのフロッピーディスクを読み込んで、カラオケボックスの部屋の利用状況を管理するプログラムが自動的に立ち上がるようになっているのだけれど、ここでフロッピーディスクを抜いて起動させたならば、MS-DOSの黒い画面が表示される。
嗚呼懐かしい。これは、僕がはじめて手にしたパソコンでよく見た画面と同じだ。ほんの数年前のあの頃は、今ほどパソコンというものは普及していなくて、僕にとってそれは、ゲルマニウムラジオの電子工作キットのような、子供向け科学雑誌に付いてきた昆虫標本セットのような、どこか秘密めいた機械だった。僕はそのパソコンで、ゲームをしてみたり、パソコン通信をしてみたり、絵を描いてみたりしたものだ。
このパソコンも、やろうと思えばそういった様々な用途に使えるのだけれど、毎日同じプログラムばかりを走らせて、他のことはさせてもらえない。そして、おそらくこの店では、僕しかこのパソコンのそうした多様性を知らないのだ。他の店員たちはパソコンといえばWINDOWSしか知らないこともあり、これを見ても、どうも、部屋管理専用の機械としか認識していないようなのである。それはなんというか、毎日工事現場で棒を振っている初老の警備員を見ても、彼がサラリーマン時代に部下の責任をとって辞めたことや、初恋の少女と文通をしたことや、少年時代に絵を描いてみんなに褒められたことや、父と母の希望を一身に受けて生まれて来たことなどを誰も想像しないのと似て、寂しいものだと思う。
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