ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を〔新版〕』(ハヤカワ文庫NV)
ダニエル・キイスの訃報に触れ、BBCやニューヨークタイムスといった海外メディアのサイトを眺めてみて、おや、と思った。日本での取り上げられ方とちょっと違っているのだ。もちろん『アルジャーノンに花束を』を代表作として大きく取り上げているのは当然なのだけど、『24人のビリー・ミリガン』についてはわずかに触れる程度。ほかの作品については完全にスルー。あれ、キイスって、本国では『アルジャーノン』だけの作家なの?
どうやら、日本では220万部の大ベストセラーになった『24人のビリー・ミリガン』も、本国ではそれほどよく売れたわけではないらしい。続篇の『ビリー・ミリガンと23の棺』は、日本のほか台湾やフランスでも出版されているが、英語版はいまだに出版されていない(ビリー・ミリガン本人がオハイオ州に対して起こした裁判の影響だという)。長篇『眠り姫』に至っては、出版されたのは世界中でも日本だけ。もちろん、「ダニエル・キイス文庫」という個人文庫まで作ってしまった国も日本しかない。
なぜ、ここまで日本で突出してダニエル・キイスが人気を博することになったのか。まずは日本におけるダニエル・キイス受容史をざっと振り返ってみよう。
1959年に発表された中篇版「アルジャーノンに花束を」が、SFマガジンに邦訳されたのは創刊1年目の61年のこと。
中篇「アルジャーノンに花束を」が掲載された〈F&SF〉誌4月号。表紙の左隅にはアルジャーノンが!
長篇版はアメリカでは66年に刊行されたが邦訳は遅れ、69年には映画版『まごころを君に』が日本公開。意外なところでは、71年に「スペクトルマン」の2話連続エピソードとして(無許可で)翻案されたこともあったりする。小尾芙佐による長篇版の邦訳が出たのは78年。表紙には花束が描かれているとはいえ、海外SFノヴェルズの一冊で、帯には大きく「ネビュラ賞受賞」をうたっている。この本は長らくSFファンが非SFファンに勧める本の定番として君臨していたが、やがて口コミでSF界の外にも評判が広がっていき、長く静かに売れ続けることになる。
ロングセラーが大ベストセラーに変わるきっかけになったのは、88年9月、氷室京介がBOφWY解散後のファーストソロアルバムとして「FLOWERS for ALGERNON」をリリースしたことである。この作品はアルバムチャートの1位を獲得する。これに前後して、小泉今日子や松任谷由実、つみきみほ、後藤久美子といった芸能人が女性誌などで『アルジャーノン』を絶賛し、さらにマンガ家の折原みとも「君がここにいる」の中で大きく紹介。若い女性の間での『アルジャーノン』の評判が高まっていく。こうした流れを受け、89年4月には、SF色を薄めた表紙で女性読者を強く意識した改訂版が刊行される。
『アルジャーノンに花束を』早川書房海外SFノヴェルズ版
この新装版が爆発的に売れ、『アルジャーノン』はSFの枠を軽々と超え、ふだん本を読まない人すら手に取るような、大ベストセラーの地位を確立したのだった。
『アルジャーノン』旋風は、他のメディアにも拡がっていく。まず90年に菊池准の脚本により舞台化される。95年にはNHK-FMでラジオドラマ化。2002年には、ユースケ・サンタマリア主演でテレビドラマにもなった。2006年には荻田浩一の脚本・演出によりミュージカル化(2014年9月から再演)。2012年には成井豊と真柴あずきの脚本で、演劇集団キャラメルボックスにより再々舞台化。日本人にもっとも愛された海外SFなのは間違いないのだが、残念ながら今では『アルジャーノン』をSFだと認識しているのは数少ないSFファンだけだろう。
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