ナマケモノとの出会い
ここで、いきなりナマケモノに登場してもらおう。「いきなり」と言ったが、実は筋書き通り。いかにも弱々しいこの生き物こそ、本連載になくてはならない重要な存在なのだ。自慢ではないが、実は筆者であるぼくも、「ナマケモノ教授」と呼ばれている。そう呼ぶ人たちがどう思っているかは知らないが、当人のぼくは、ナマケモノという動物の大ファンだから、悪い気はしない。
最初の出会いはもう20年以上前のこと、南アメリカ大陸のエクアドルという国で、だった。自然豊かなこの国では、鉱山や大規模農業などの開発のためにあちこちで森林伐採が進められていた。でも現地に長年暮らしてきた人々にとって、森は生存の土台であり、命の源だ。
森を守ろうとする現地の人々を応援する活動に参加したぼくと仲間たちは、その森に棲むミツユビ・ナマケモノに出会った。それは、異星から来たかのような不思議な雰囲気を漂わせていた。ふさふさとした毛、体の割に長い手足、その先に突き出している3本の長い爪。180度回る小さな頭、どこか眠そうなつぶらな目、そしてスローモーションみたいな緩慢な動き。よく見ればその顔にはいつもかすかなほほえみが浮かんでいる。
その当時、行く先々の町や村で囚われの身となったナマケモノを見かけた。あわれな姿だった。その地域では、森を切り開いた後に油をとるためのヤシの農園がつくられていくのだった。他の動物や鳥の多くは、他の場所へと移住できるかもしれないが、動きののろいナマケモノは取り残されてしまう。伐採会社に雇われて働いている人々の中に、ナマケモノを見つけ、つかまえては食肉用に売ろうとするものが現れる。その地域では、以前ナマケモノが食用にされることはなかったという。第一、あの体を見れば、とても食べられるところが多いとは思えないのだが。
ここでちょっと説明が必要だろう。エクアドルなどのラテン・アメリカの国々には、男性が男らしさ、強さ、たくましさなどを強調し、女性に対する優位性を誇示する、「マチスモ」という考え方や態度がよく見られる。肉食もこの「マチスモ」の一要素、つまり、肉を食ってこその男らしさというわけなのだ。肉食、特に牛肉を食べることに関するこれと同じ考え方は、欧米の社会にも広く見られる。
だが、土地をもたない貧しい農民にとって、肉は贅沢品。肉食で男をあげることもままならない。そこで、代用品として、簡単に手に入れられるようになったナマケモノが選ばれたのではないか。そうぼくは推理する。
しかし、いくら代用だとはいえ、ナマケモノのようにおとなしく無害な動物をどうしてあれほど残酷に扱わねばならないのだろう? しばりあげ、爪をはがし、手足の骨を折り・・・・・・。ぼくと仲間たちは売られているナマケモノを買っては、森にまた放そうとするのだが、買えば買うほど、またとって売ろうとする者が増えてしまうのだった。
ぼくたちは無力だった。でも、考えてみれば、この無力感はナマケモノという動物の存在自体に具わっている「弱さ」と密接に関係していた。今ではこんなふうにも言えると思っている。ぼくは、その「弱さ」を通じてナマケモノと出会ったのであり、その「弱さ」のおかげで、ぼくは多くの大切なことを学ぶことになったのだ、と。
どんなにむごい扱いを受けてもナマケモノは顔に、かすかな微笑みを絶やさないようぼくには見えた。一緒に現地で活動していた仲間の環境活動家は、そんなナマケモノのことを「森の菩薩さま」と呼んだものだ。 結局、森を守る以外にこの動物を救う方法はない、と考えるしかなかった。そして地元で森林保全の活動をしている人たちを応援するために、「ナマケモノの棲む森を守ろう」というスローガンを掲げた。その一方で、ナマケモノの不思議な魅力のとりこになってしまったぼくは、この動物についての自分なりの調査にとりかかった。
アメリカ人学者たちのナマケモノ研究の舞台となったパナマのスミソニアン熱帯研究所や、世界でたったひとつのナマケモノ救護センターがあるコスタリカのアヴィアリオス自然保護区を訪ねた。また、エクアドル奥地アマゾン地域では、ジャガーの魂と交信するシャーマンからナマケモノの話をきいた。こうした調査を通じて、ぼくのうちに変化が起こった。少し単純化して言えば、それは「かわいそうなナマケモノを救いたい」から「ナマケモノのような生き方がしたい」への変化だった。