僕の母親はカトリックの洗礼を受けている。最近はすっかり興味もなくなったようだけれども、僕がまだ小さかった頃は、家に十字架を飾り、皿洗いをする時などには聖歌と思しき歌を口ずさんでいた。僕に与えられた最初の絵本も聖書の逸話をモチーフにしたもので、だから幼い頃にもっとも親しんだ物語は、七日間の天地創造の話だったり、アダムとイブの話だったり、ノアの箱船の話だったりする。こうした聖書のお話自体は面白いとは思ったけれど、母親が目の前に存在もしないよくわからぬものを信じているということで、宗教そのものには複雑な感情があった。それがどんなものだか知りたくて、こっそり母の聖書をめくったりもした。小説を本格的に読むようになったきっかけがキリスト教を下敷きにした海外文学だったのも、今思えば全く無関係ではなかったのだろう。
なるべく理性的に振る舞いたいとは思っているのだが、根深く人間性に染みついたものはどうにもならない。身の回りで似たような話があるたびに無関心ではいられなくなる。他人事ではいられなくなる。惻隠の情といえば聞こえはいいが、人格が不完全だと表現したほうが適切だろう。そう言えば、もっとも長いつきあいの友人である逆野の家族もクリスチャンで、最初に会った少年の頃、神が存在するだのしないだのと議論を交わした覚えがある。
感情的になるのはいやだなあ。けれど、親が宗教にのめりこんでいるとか、そして虐待めいた扱いを受けているとか、目の前で話されてしまえば、やはり自分の思春期時代と重ね合わさないわけにはいかない。そして息苦しくなる。空が低く感じられる。いや、都会の空はいつだって低いものだと相場が決まっているのだけれども。
もうすぐ着きますよ、と増岡は言った。原宿といえども、当世風の店が所狭しと立ち並ぶ華やかな通りしかないという訳でもなく、一つ道を隔てれば閑静な住宅街が広がっていたりもする。といっても、僕の慣れ親しんだ関東の片田舎のように古くさい一戸建てが並び、生け垣に小学生の子供が放置したまま伸びきったへちまの蔓が巻き付いているという訳でもなく、コンクリートで四角く整形された背の高いビルが隙間なく道の左右に立ち並んでいた。やがて増岡が立ち止まって、ここです、と言ったマンションもその一つであった。
随分高級なところに住んでいるものだ。ガラスで出来た自動ドアを通り抜けると、壁も床もつるつるとしたピンク色の大理石が照明を反射している。入ってすぐの壁にはオートロックのパネルがあり、増岡が慣れた手つきでカードキーを差し込むと、奥へ続く扉が音もなく開いた。
増岡にとっては当たり前の我が家への帰宅なのだろうが、正直なところ僕はこんなに清潔なマンションに足を踏み入れたことがなかったので気後れしてしまう。子供の頃は同級生の生活感に溢れた一軒家、今は自分と似たような経済力しかない連中の住む安アパートが、僕の訪ねたことのある他人の家である。住む世界が違う、という印象をこれだけで受け取ってしまうのは、僕の人間としての器が小さいせいか。
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