第二章 静寂と喧噪(2)

蒔野は音楽家として深い深い苦悩の時期に入っていく。そんな中、新作のレコーディングを途中でやめた蒔野とレコーディング会社の問題に、三谷は、マネージャーという立場というより、個人の怒りの感情を隠すこともせずぶつけはじめる……。

 通行人たちは、痴話ゲンカでも見たような顔で、そそくさと通り過ぎていく。違うんですよ、とその背中に一言言いたい気分だった。

「今回のことは、俺が悪いんだよ、それは。やるって言ったことを急に止めるって言い出したんだから。怒るよ、そりゃ向こうだって。」

「でも、蒔野さんは天才なんですよ! 世界中にファンがいて、尊敬されてる芸術家が、どうして普通の人と同じように考えなきゃいけないんですか?」

「笑われるよ、そんな大声で。」

蒔野は、勘弁してくれといった様子で手で制した。

「そりゃ、そういう思い込みで生きていけるなら、俺だって苦労しないよ。けど、無理でしょう、それは? 俺は謙虚なんだよ、こう見えても。」

「そう思えませんけど。」

「いや、そりゃ図々しいけどさ、なんて言うか、……とにかく、マネージャーと二人してこんな会話してる時点で、寒々しいにもほどがあるよ。ただでさえ寒い日なのに。」

蒔野は、コートの襟元を閉じ合わせて、震え上がってみせた。三谷は、彼の言っていることがよくわからない時に見せる、憮然とした表情になった。

「是永さんは、自分のことしか考えてないんです。わたし、前からそう思ってました。」

「そう? 仲良いと思ってたんだけど。—もしそうだとしてもだよ、責められないよ、それは。みんなそうでしょう?」

「わたしは、蒔野さんが素晴らしい作品を生み出すことだけを考えています。」

 蒔野は、即答せず、少し間を置いてから口を開いた。

「その気持ちは、うれしいよ。けど、それだって突き詰めれば自分のためでしょう?」

「違います。」

「いや、批判してるんじゃなくて、それが現実だって言ってるんだよ。」

「違います! わたしはただ、一音楽ファンとして、蒔野さんの素晴らしい音楽を聴きたいだけです。その意味でなら、わたしのためです。そのために何ができるか、いつも考えてます。だから、蒔野さんにも、こうして意見を聞いてもらってるんです。」

 泣き出すんじゃないだろうなと、蒔野はその思いつめた様子にたじろいだ。そして、相当な変人だなと改めて思った。病的なところはなかったが、それにしても、マネージャーが、こんなにナイーヴに音楽家に同調していては、先が思いやられるというものだった。

 彼女の率直さには、確かに、心を打たれるところもあった。思い余ってこんなことを言い出すのも、わかったつもりでいて、結局はまだ、彼女の胸の内をよく理解できていないからなのだろう。彼はせめて、そのもどかしさを忖度して、

「気持ちはよくわかったし、嬉しいけど、ビジネスなんだから。こんなこと、俺が言って聞かせるのは、あべこべだよ。」と言った。

 三谷は、蒔野のそのうんざりした口調に、さすがに少し冷静になったが、同時に自尊心も傷つけられたらしかった。

「もちろん、蒔野さんがスムーズに活動できるようにするのがわたしの仕事ですから、それは心得てます。わたしは、自分が芸術家じゃないことはよくわかってます。そんなふうにはうぬぼれてませんし、自分の立場に責任を持ってます。」

「それならいいよ。……いいんですよ、じゃあ。とにかく、現実的に、うまくやっていくことを考えないと。俺にはできないことを、三谷さんに—三谷さんの会社に委ねてるんだから。」

「そうです。だから、面倒なことはわたしたちに任せて、蒔野さんには、音楽にだけ集中してほしいんです。今度のレコードを出さない、ツアーにも出ないとなると、わたしたちだって大変です。コンサート会場を全部キャンセルして回るんですから。ジュピターさんとは比べものにならない損害です。そんなことしていいんだろうかって、今も不安です。でも、わたしはそうすべきだと信じています。」

 蒔野は、何か言おうとしたまま、言葉が出てこないので、結局、黙って頷いただけだった。唇を噛んで、歩き始めた彼を、三谷はまた呼び止めた。

「蒔野さん、」  蒔野は、さすがに苛立ちを押さえられなかった。

「何?」

「文化村ですよね?」

「そうだよ!」

「そっちじゃなくて、こっちです。」

「え……?」

 彼は、指さされた方向を訝しげに見つめた。そして、自分の行こうとしていた道を振り返ると、かっとなった分、余計に恥ずかしくなって、彼女と目を合わさないまま早足で歩き出した。

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