庄司薫は中村紘子『ピアニストという蛮族がいる』の中で再生した 後編

中村紘子『ピアニストという蛮族がいる』評、後編です。今回は、finalventさんが彼女もまた蛮族であるという中村紘子の母・曜子の生い立ちを振り返ります。そんな母のもとで育った中村紘子が、まるで畑の違う作家の庄司薫を結婚相手に選んだわけは? そしてその二人の結婚がもたらしたものとは? 必見の後編です。

中村紘子の母・曜子の物語

 中村紘子の母・中村曜子は1926年、憲兵だった中村正次と妻「かきを」の長女として山梨県で生まれた。その後、一家で東京に転居し、彼女は5年制の東京府立第十一高等女学校(現在の都立桜町高校)に入学した。同期生にはデザイナーの森英恵がいる。曜子は高女卒業後、上級の家庭科に進学するが、同年、17歳のとき、11歳年上で、市谷で陸軍士官学校の教官をしていた野村典夫と結婚する。憲兵であった父の関係による縁であろう。翌44年、彼女は妊娠し、山梨県遠山で出産した。ここまでは戦時下という点を除けば当時の普通の生活である。だが、出産の前年の43年末に野村は所属を旭川に転じたが、その地で曜子と同居していない。

 紘子は当然、中村曜子と野村典夫の娘であるが、紘子の戸籍は曜子の妹となっている。曜子が移したのか、その父・正次が移したのかはわからない。野村も戦後しばらくそのことを知らず、曜子と妹・禮子と紘子とでしばらく暮らした。だが戸籍の真相が原因かわからないが、典夫は離婚をせまるようになった。いつ頃、曜子と典夫の同居が解消されたかわからないが、1947年当時、ピアノを習っていた3歳の紘子に父の記憶はなかったという。野村と曜子の同居の期間は短かったのだろう。1949年に曜子は印刷会社を興し、また紘子を慶應義塾幼稚舎に通わせた。曜子はそこから人脈を広げ、紘子を一流のピアニストにするために安宅産業二代目会長・安宅英一に援助を求めた。ジュリアード音楽院進学も彼の援助がなければ不可能だっただろう。

 その後曜子は、おそらく紘子の名声などもきっかけとしてだろうが、さらに人脈を広げ画廊・月光荘社長となり、ロシア絵画の取引などの事業を行う傍ら、1967年、同社ビル完成に合わせてその地下に限定会員制の美術クラブ「サロン・ド・クレール」を開き、財界・政界の人脈を作り上げた。それだけでも、曜子は政界のフィクサーのように見えないでもない。曜子の物語は、まさに「蛮族」というほかのないエネルギーの発現だった。

 では曜子は、権力欲や金銭欲に駆られた人だったのかと言えば、生涯、家もなく財産を築き上げたわけでもなかった。月光荘の経営は実際には人任せであり、どちらかといえばお金に無頓着な人間であった。会社名義であろう、ホテル暮らしをしていた。

称賛と怨嗟の中、庄司薫の世界に飛び込む
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