思い出トランプ(向田邦子)中編

今回の『新しい「古典」を読む』は、前回に引き続き『思い出トランプ』中編をお届けします。1981年に飛行機事故で亡くなった向田邦子。20年以上が過ぎてある事実がわかりました。それは、本書を読み解く上で非常に重要な鍵になります。中編は、その事実を通して向田邦子自身の過去に迫ります。

「手袋」が示していたもの

思い出トランプ (新潮文庫)
思い出トランプ (新潮文庫)

 謎に踏み込む前に、22歳の向田邦子の彷徨が『思い出トランプ』(新潮文庫)の初回作、「りんごの皮」につながっていくようすを見よう。この短編の主人公・時子は自分の美意識を貫いて30年を生きてきたと言う。時間をさかのぼれば向田邦子がちょうど22歳のときの手袋の象徴がつながる。

 チグハグな色のものを身につけるくらいなら、何年も着た黒いセーターでいる方がいい。スピッツが嫌い。クイズ番組も見ない。花柄の電気製品は断固として買わない。小指の爪を伸ばした男、赤いネクタイをする男、豪傑笑いをする男は嫌い。こんなことばかりきにし三十年を暮らしてきたような気がする。

 30年は正確な数字ではなく、社会に出た若い日からという含みだろう。「りんごの皮」の主人公・時子は50歳近い女である。設定では離婚歴があり、同じ年齢くらいの医者と不倫の関係にある。

 時子は一人暮らしのマンションで男と戯れているところを、金の工面に訪問してきた弟・菊男に見られる。「菊男」はこの短編では妥協した安逸の結婚生活を象徴している。菊男は姉の非社会的な関係をあえて見ようとせず立ち去ったので、時子は彼の家に金を届けようとする。その途中、年の瀬の渋谷のデパート内に入り、戸惑う。

 年の暮れが近いせいであろう、デパートは混み合っていた。人いきれで汗ばむほどだったが、時子は外套を脱ぐのも億劫だった。さまざまな色や形が廻り揺れ動いていた。さまざまな音楽や言葉が、子どもの泣き声が飛び交っていた。時子にはすべて縁のないものであった。時子の欲しいものは、このデパートには売っていないのだ。

 「手袋をさがす」の彷徨によく似ている。

 主人公・時子は公団住宅の菊男の家の前まで来ても立ちすくむ。普通の結婚生活の情景に触れることができないからだ。

 公団住宅の階段を上り、ドアの前まで行ったことは行ったのだが、ベルを押さずに帰ってきた。換気扇から魚を焼く匂いが流れて来たせいである。夫婦に子ども二人。四人家族が四切れの魚を買って焼いている。姉弟でも、もう割り込む余地はないのである。

 ほぼ同年の主人公・時子を通して49歳の向田邦子は、22歳の自分を重ねている。22歳の決意のまま50歳を迎えようとしている女がそこにいる。

 あるきっかけがあって、22歳のときから、穏やかではあるが妥協に満ちた普通の結婚生活を諦め、そのまま凍結するように30年を過ごした。向田邦子の内面はずっと22歳のまま、凍える冬の娘であり続けた。

 その22歳の娘が、49歳の女の内面にいるだけではなく、51歳で亡くなったその18年後に、22歳の鮮烈な容貌で再生した。

秘められた20代の向田邦子

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