第二章 静寂と喧噪(1)

芥川賞作家・平野啓一郎の3年ぶりの長篇となる小説『マチネの終わりに』第二章突入! 天分豊かなクラシック・ギタリスト蒔野聡史と、海外の通信社に勤務する小峰洋子、2人は出会ったその日、言葉を交わす程に、誰よりもお互いを理解し合っている感覚を持つ。出会いの夜を終え、蒔野は音楽家としての苦悶の日々を過ごすことになっていく……。

静寂と喧噪

 年が明けて、二月の寒い日だった。

 蒔野は、レコード会社の是永と、渋谷駅近くのビルのカフェで二時間に及ぶ長い話し合いをした。三谷も同席していた。  昨年末以来、蒔野は、新作《この素晴らしき世界~Beautiful American Songs》のための編曲とレコーディングに携わっていた。

 “誰でも知っている懐かしの名曲を、誰も知らないクラシック・ギターの響きで”というのがその謳い文句で、収録を終えたサイモン&ガーファンクルの《明日に架ける橋》やスティーヴィー・ワンダーの《ヴィジョンズ》など四曲は、まったくクラシック・ギターを聴かないジュピターの他部署の社員の間でも評判になっていた。全体的に中高年向けの選曲だが、あまりそれだけでもというので、ボーナス・トラックには、Jay-Zの《Girls,Girls,Girls》を、ギターのボディを叩いて音を鳴らすフラメンコの奏法などを取り入れて“超絶技巧”で演奏した毛色の変わったもの、、、、、、、、、も準備していた。みっともないことになるんじゃないかと、さすがに懸念されていたそれも、蒔野が以前に編曲したスティーヴ・ライヒの作品を思い出させるような、透明感のある反復が新鮮な仕上がりとなっていた。

 既に、コンサートは勿論のこと、テレビやラジオへの出演など、パブリシティの準備も進みつつあった。元々、「売れる曲を」というレコード会社の要望と、蒔野がまったく未開拓の北米での活動を見据えた事務所の意向とが合流して持ち上がった企画で、蒔野自身も納得の上で進めていた話だった。選曲にも拘り、是永は、蒔野が意外にポップスにも詳しいことに驚きつつ、スティーヴィー・ワンダーなら、《アイ・ジャスト・コールド・トゥ・セイ・アイ・ラヴ・ユー》など、もっと有名な曲の方がいいのではないかといった議論を、洋楽部門の社員と一緒に熱心に重ねてきた。

 それを、蒔野はここに来て、唐突に「止める」と言い出したのだった。理由はただ、「嫌になった。」の繰り返しだった。

 蒔野を説得できなかった是永は、下までエレヴェーターで一緒に降りると、硬い表情のまま、言葉少なに頭を下げた。会話中、彼女自らが勢い口にした通り、恐らく担当は変わることとなるだろう

蒔野は、雪が降るという話し合いの前の雑談のことを思い出しながら、暗くなり始めた空を見上げた。何か食べて帰りたかったが、三谷が丁度、文化村のオーチャード・ホールの関係者と打ち合わせがあると言うので、そこに入っているカフェ・ドゥ・マゴに行くことを思いついた。風が冷たく、自然と体が強張った。

 渋谷駅の高架下を、轟音を反響させながらダンプカーが走り去ってゆく。客を降ろそうと急に停まったタクシーに、後続車が腹を立てて、舌打ちするような苛立ったクラクションを鳴らした。三拍置いて、がなり立てるように長い四拍。少し低いラとドのクラクションの和音が、耳の奥にこびりついた。運転手の顔は見なかったが、そのタイミングの取り方には、生々しい譜割りの感覚があった。楽器を弾かせても、この人はこれが出るだろうなと、蒔野はぼんやりと考えた。

 頭の中では、幾つもの音楽の断片が浮かんでは消えてゆき、やがて、編曲しかけたまま放置しているロバータ・フラックの《やさしく歌って》に辿り着いて、そのハスキーな、どことなくあどけない感じの歌声の反復が続いた。

 そのうち、人からいつも方向音痴を呆れられている蒔野は、近道のつもりで当てずっぽうに一つ角を曲がったあたりから、自分がどこを歩いているのかわからなくなってしまった。細い通りの横断歩道で立ち止まると、車が一台通り過ぎるのを待った。顔を上げてビルの看板を見ていると、突然、傍らから女性が一人、すっと道に飛び出した。

「危ない、……」  彼は、その二の腕を掴んで引っ張った。急ブレーキと共に車が停止し、運転手は長いクラクションを鳴らしながらこちらを睨みつけた。それも無理もないほど間一髪だった。轢かれかけたのは、三谷だった。

 蒔野は、自分が彼女と一緒に歩いていたことをいつの間にか忘れていた。そのこと自体に驚きつつ、彼女が女であることを意識せざるを得ないほど強く腕を握った感触を持て余した。コート越しだったが、今の弾みで痣でも残るんじゃないかというほど、その腕は意外に柔らかく、か弱かった。

「大丈夫?」と、彼女を気づかいつつ、蒔野はようやく安堵したように言った。「あー、もう、心臓に悪いよ。ちゃんと見ないと。」

「見てました。」

「ん?」

「わたし、おかしいと思うんです。」

 三谷は顔を上げると、いつになく険しい目で彼を見つめた。

「何が?」

「歩行者優先でしょう? どうして日本の車は、横断歩道を人が渡ろうとしてるのに停まらないんですか?」

「……は?」

「パリとか、ちゃんと停まって待つじゃないですか。信号が赤になっても、渡りそこなった人を待ってるし。今だって、あの車の方が止まるべきでしょう?」

「そりゃそうだけど、日本じゃ停まらないでしょう? 特にこういうところでは。」

「でも、それって間違ってますよね?」

 蒔野は、眉を顰めて、人にぶつかりそうな彼女をそっと道の端に引き寄せた。

「本当なら止まるべきだよ、それは。だけど、現実はそうじゃないんだから。そんな無茶してたら、命が幾つあっても足りないよ。まァ、副業で当たり屋やってるとか、そんなのなら別だけど。」

 蒔野は冗談半分に宥めると、笑ってようやく手を放した。歩き出そうとしたが、三谷はビルの壁を背に立ち尽くしたまま、動こうとしなかった。

「わたし、おかしいと思うんです。」

「いや、だから、……」

「車じゃなくて、さっきの話です。音楽家がやりたくないって言ってることを、どうして尊重しないんですか? 他のことをしたくなったなら、しょうがないじゃないですか。」

 蒔野は、しばらく無言で彼女の目を見ていた。そして、小さく嘆息すると、雑居ビルの入口の小脇に場所を見つけて、改めて彼女と向き合った。

 三谷の口調には、彼に阿諛する気配が微塵もなかった。彼女はまるで、行列に急に割り込まれた人か何かのように、感情的に、本気で腹を立てているのだった。

 蒔野は、彼女のそういう変わったところを、一年がかりでかなり理解していた。そう自負していたのだったが、この不意打ちには、当惑を禁じ得なかった。


(つづく)

平野啓一郎・著 石井正信・画


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マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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corkagency 『マチネの終わりに』 平野啓一郎 @hiranok cakes 5年以上前 replyretweetfavorite