「でも、わたしがよく遊んでた、その石だったんです。」
洋子は、皿を受け取りながら改めて言った。三谷は、怪訝そうな顔をした。 「だけど、……わかってたら、対処のしようがありますけど、しょうがないですよ。危ない場所にあったんですか?」
「ああ、そうじゃないんです。わたしが言いたかったのは、ただ、子供の頃のわたしが、いつか祖母の命を奪うことになるその石で、何も知らないまま遊んでたっていう、そのこと自体なんです。」
「それは、……え、だけどそんなこと言ったら、この世界、お年寄りにとっては危険なものだらけなんだし。それで、自分を責めなくてもいいと思いますよ。」
「責めてるんじゃないです。責めようがないですから。そうではなくて、……」
もっと簡単に伝わる話だと思っていたらしく、洋子は、続けるべきかどうかを迷っていた。テーブルの残り半分では、深夜の大量のパエリアを少し持て余しながら、先ほどから都内のイタリア料理店ではどこが一番かという話が続いていた。そちらに合流すべきだろうかというふうに、彼女は一瞥した。
蒔野は、三谷と洋子のグラスに赤ワインを注ぎ、自分にも足して、少し間を置いてから三谷に言った。
「洋子さんは、記憶のことを言ってるんじゃないかな。」
二人の眼差しが蒔野に集まった。
「お祖母様が、その石で亡くなってしまったんだから、子供の頃の石の記憶だって、もうそのままじゃないでしょう? どうしても、頭の中では同じ一つの石になってしまう。そうすると、思い出すと辛いよ、やっぱり。」
洋子は、先ほどとは違った、静かな声でそう語る蒔野を、じっと見つめていた。そして、理解されたということの喜びに瞳を輝かせた。
三谷にはしかし、その説明が、更なる混乱の種となった。
「でも、子供の頃の思い出は思い出で、また別じゃないんですか? その時は、ただの石だったんだし。未来がわからなくて遊んでて当然じゃないですか?」
「そうだよ、その時は。でも、そういう不幸があってから思い返すと、複雑な気持ちになるでしょう?」と蒔野は言った。
「えー、わからない。……え、洋子さん、そういう話だったんですか?」
「今、自分でもわかりました、蒔野さんのお話を聞いていて。もやもやがすっきりしました。」
蒔野は洋子を少しだけ見て目を伏せた。三谷は納得しなかった。
「えー、……でも、……だから何なんですか? ごめんなさい、わたし、全然理解できないんですけど、その感覚が。」
「何でもないんです、だから。ごめんなさい、ヘンな話になってしまって。」
洋子は、三谷が酔っているのにようやく気がついて、そのまま場を収めようとした。しかし、蒔野は会話を続けたがった。
「いや、ヘンじゃないです、全然。音楽ってそういうものですよ。最初に提示された主題の行方を最後まで見届けた時、振り返ってそこに、どんな風景が広がっているのか? ベートーヴェンの日記に、『夕べにすべてを見とどけること。』っていう謎めいた一文があるんです。ドイツ語の原文は、何だったかな。洋子さんに訊けば、どういう意味か教えてもらえるんだろうけど、……あれは、そういうことなんじゃないかなと思うんです。展開を通じて、そうか、あの主題にはこんなポテンシャルがあったのかと気がつく。そうすると、もうそのテーマは、最初と同じようには聞こえない。花の姿を知らないまま眺めた蕾は、知ってからは、振り返った記憶の中で、もう同じ蕾じゃない。音楽は、未来に向かって一直線に前進するだけじゃなくて、絶えずこんなふうに、過去に向かっても広がっていく。そういうことが理解できなければ、フーガなんて形式の面白さは、さっぱりわからないですから。」
蒔野は、そう言うと、一旦考える間を取ってから言った。
「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」
蒔野はすんでのところで思い直した。
「いや、ごめん。……いいんだ。気にしないで。」
「何?」
「ううん、他愛もないことだから。」
洋子は、何かを察したらしかった。表情で釈然としない思いを伝えはしたものの、それ以上は喰い下がらなかった。
何度か二人とも時計を確認して、遅い時間になりつつあることに気づいていた。しかし、もう少しだけと見ないフリをしているうちに、最後は同席の者たちが、「そろそろ、……」と声を掛けた。三谷は椅子で眠ってしまっていた。
「マネージャーの彼女も疲れたでしょうね、コンサートの緊張感で。わたしの話で、気を悪くしなかったかしら?」
洋子は、年長者らしい、心配するような眼差しで見つめた。
「大丈夫だよ。こうと思ったらこうだけど、あの気の強さで僕も助かってるから。根は真面目だし。」
二人は、連絡を取り合うことを約束して、関係者と一緒に店を出た。先にひとり、洋子をタクシーに乗せると、蒔野は窓ガラス越しに、運転手に行き先を伝えるその横顔を見つめた。イェルコ・ソリッチの娘。十八歳の時の自分の演奏を、二十年間、覚えてくれていた彼女。……
まったく現実的ではなかったはずだが、そのまま朝まで一緒に過ごすという選択もあったのではないかと、あとになって、二人ともがそれぞれに考えた。というのも、彼らの関係の中でも、この出会いの長い夜は、特別なものとして、この後、何度となく回想されることとなったからだった。
最後に名残惜しく交わした眼差しが、殊に「繊細で、感じやすい」記憶として残った。それは、絶え間なく過去の下流へと向かう時の早瀬のただ中で、静かに孤独な光を放っていた。彼方には、海のように広がる忘却! その手前で、二人は未来に傷つく度に、繰り返し、この夜に抱かれながら、見つめ合うことになる。
(つづく)
平野啓一郎・著 石井正信・画
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