青い蛍 

『宇宙人生』を連載中のNASAで働く日本人技術者、小野雅裕の短編小説『青い蛍』をご紹介!毎日新聞関西版夕刊の『掌の物語』のコーナーに掲載されたものに、更にエピソードが加わった特別バージョンです!宇宙技術の最先端の中で働く小野が、未来の火星を舞台に故郷を思う地球人を描いた物語をお楽しみくださいーー

 青い夕日が、赤い山の向うに落ちようとしていた。火星一の大都市であるニュー・ムンバイの、透明な半球状のドームに覆われたアテン広場を忙しく行き交う仕事帰りの人々も、ふと足をとめて夕日の美しさにため息を漏らした。

 そんな人々の群れを避けるように、所在なげに広場の隅に立って誰かを待っている一人の男がいた。彼の手足は他の人と比べて際立って太く、背丈は低くて、一目で彼が地球生まれであることが分かった。

 彼は名をケントと言った。火星に移住して三十年が経っていた。もう見慣れたはずなのに、この星の青い夕日を見ると、いまだに彼は誰も知り合いのいない宴に来てしまった時のような居心地の悪さを感じた。逃げるように目を時計に移した。息子の学校はもう一時間も前に終わっているはずだった。 (ジョージは一体どこで油を売っているんだ…。)

 待ち呆けているうちに日は沈み、残光もだんだんと薄らいでいった。やがて西の空に、青く輝く一番星が出た。それはケントの故郷の、地球だった。夕日の強烈な青とは対照的な、蛍の光のように儚げなその青は、小さな安堵と共に、苦しいほどの郷愁を彼の胸に呼び覚ました。

 若い頃、彼は遠い世界に漠然とした憧れと野心を抱き、偶然見つけた片道移民の募集に飛びついて、飽きた女を棄てるように故郷を捨てた。しかし歳を重ね、磨り減った野心よりも望郷の念が大きくなった頃には、家族や、仕事や、財産などといった現実的な要因が、鎖のように彼をこの赤い寂莫とした大地に縛り付けていた。彼にはもう、その鎖を断ち切って逃げるほどの勢いも無謀さも残っていなかった。だからこうして遠い故郷を眺めながら、もしあの青の中に留まっていたなら、などとメランコリックな想像に耽るのだった… 「パパ、おまたせっ!」

 突然、背中を突き飛ばされて振り返ると、声変わりをし、ケントを見下ろすほどに背の高くなったジョージが、まだ少年のままの人懐こさでケラケラと笑っていた。小さな頃のジョージは地球っ子と全く変わりなかったのだが、少年の華奢な手足は太くなることなく長さだけが伸び、胴も肩幅が広がることなく背だけが伸びて、今では典型的な火星民の体型になっていた。

 息子の顔を見ると、ケントは郷愁と待たされた不満を手際よく追い払い、優しい父親の顔に素早く切り替えた。そして、一方の手で息子の背中を抱き寄せると、もう一方の手で西の空を指差して、努めて快活な声で、 「ほら、あの星、分かるか。地球だよ!」 と言った。ジョージはそれに合わせるように、大げさな抑揚をつけて、 「ワオ!キレイだね!」と応えた。

 その言葉はしかし、ケントの心には、トンネルの中のこだまのように空虚に響いた。訛りのない標準語スタンダードで発せられた「キレイ」という平凡な言葉のどこにも、彼があの青い星に対して抱く感情の深みは含まれていないと感じたからだった。彼は息子の背中を抱く手を力なく離した。火星で生まれ育った息子に理解しろという方が無理なのは分かっている。だが、愛する者と感情の最も深い部分を共有できないもどかしさは、余計にケントの孤独を深めるのだった。

 ジョージはそんな父親の感情の小さなさざなみに気付くことなく、構わずに続けた。 「じゃあさ、地球のウマいスナックを買って帰ろうよ。知ってる?すぐそこにタコヤキの店ができたんだぜ。」 「お、タコヤキはパパも子供の頃に大好物だったぞ。でもどうせ肉は本物のタコじゃなくて、カイコだろ?」

 それを聞いてジョージはすこし不満げな顔になり、肩をすくめた。

 親子は広場を出ると、迷路のような地下路地に入っていった。この街では、隣接する建物は全て地下で繋がっていて、アリの巣のように複雑な地下街のネットワークを形成していた。大気が薄く、宇宙服なしでは屋外を歩けない火星に街を築いた移民たちは、こうして移動の自由を地下に求めたのだった。

 とりわけアテン広場のあるオールドタウン一帯の地下路地は、狭くて天井が低いうえに、いつも肌と肌が触れ合うほどに混みあっていて、人の汗の匂いと、様々な食べ物の匂いが、不快に混ざり合い充満していた。長身の火星民たちの人混みにケントはすっかり埋もれてしまうので、彼はこの場所が好きではなかった。一方、ジョージは慣れた足取りで、泳ぐように人をかき分けて路地を進んでいった。ケントは息子の背中についていくのに必死だった。

 タコヤキ屋はジョージの言うとおり、大変な繁盛だった。店の奥のキッチンでは、腕が何本もあるタコのような形のバイオボットたちが、くるくると手際よくタコヤキを作っているのが見えた。この星ではタコが入っているからではなく、タコが作っているからタコヤキというのか、などと皮肉な笑いを心に浮かべていると、東洋系女性の姿をした接客用のバイオボットが「お客様」と唐突に声をかけてケントの思考に割り込み、ショウユかソースか、マヨネーズはいるか、と注文をテキパキと取った。何かが違うな、とケントは思わずにはいられなかった。


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 親子は一ダースのタコヤキを買ったのちアテン広場に戻り、その地下にある駐車場へと降りていった。ジョージは歩きながらパックを開け、丸々一個を口に放り込み、熱さに悶えながら、ウマイ、ウマイと繰り返した。ケントはそんな息子の無邪気さを微笑ましく眺めていた。

 その時ふと、ケントの脳裏を素早く横切る何かがあり、あっ、と声を出しそうになった。それは、この光景を過去にどこかで見たことがあるという確信だった。どこでそれを見たのか…そうだ、あれは自分が子供の頃…何かの帰り道…赤い夕日が記憶の中の風景の全てを包んでいた。彼はウマイ、ウマイと言いながらタコヤキをほおばった…そしてその横で、ケントの父が優しく微笑んでいた。

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宇宙人生—NASAで働く日本人技術者の挑戦

小野雅裕 /小山宙哉

世界で唯一、太陽系の全ての惑星に探査機を送り込んだ機関があります。それは、NASAのJPL(ジェット推進研究所)という組織。そんな宇宙探査の歴史を切り拓いたともいえるJPLで働く技術者・小野雅裕さんが目指すものとはーー。『宇宙兄弟』ス...もっと読む

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