一故人

片山豊—自動車とともに走った105年

日産でフェアレディZを生み出し、多くの社員から「Mr.K(ミスターK)」の愛称で親しまれた片山豊。自動車の世紀に併走したかのような105年の人生は、いかなるものだったのか。彼の仕事、人柄、そして自動車愛を紹介します。


歴史をつくったスポーツカー

1970年代生まれの私にとってスポーツカーといえば、日産自動車のフェアレディZがまず思い出される。1969年に発売されたフェアレディZは、その後何度かモデルチェンジが行なわれたが、印象に残るのはやはり最初のタイプだ。運転席から先に長いノーズ(エンジンルーム)を持つ、その滑らかな流線型のボディに惹かれた少年は私だけはないだろう。

フェアレディZは自動車の歴史においても特筆すべき車である。日本での支持者は少なかったが、アメリカでは大ヒットとなり、1996年に一旦生産・販売が打ち切られるまでに総販売台数は100万台を超えた。自動車ジャーナリストの徳大寺有恒によれば、世界のスポーツカー市場には「Z以前、Z以後」というフレーズがあるほど、フェアレディZの登場によってスポーツカーの概念は一変したという。それまでスポーツカーといえば乗り心地が硬く、夏は暑くて冬は寒いという代物だったのが、フェアレディZにはエアコン、パワーステアリング(動力式かじ取り装置)、パワーウィンドウ、カーステレオとありとあらゆる快適装備がほどこされていたからだ。これによって欧米のスポーツカーメーカーはことごとく打撃を受けることになる(徳大寺有恒『自動車産業進化論』)。

だが、先述のとおりフェアレディZは一旦生産が打ち切られている。それは日産の業績悪化にともなう経営のスリム化の一環だったが、これに対し徳大寺は日産の社員に「フェアレディは日産のシンボルなんだから絶対にやめちゃだめだと偉い人に伝えてほしい」と懇願したという。まったく同じことを、1999年に日産の再建のためCOO(最高執行責任者)に就任したカルロス・ゴーン(現・日産社長兼CEO)に直接申し出た人物がいる。かつてアメリカ日産の社長を務め、フェアレディZを世界市場に送り出した張本人である「ミスターK」こと片山豊(2015年2月19日没、105歳)その人だ。

じつはフェアレディZは、ゴーンがミシュランのアメリカ法人社長を務めていた頃の愛車だった。それもあって、片山の申し出にゴーンは目を輝かせながら約束してくれたという。果たしてフェアレディZは2002年に復活する。同時に、ニューZ開発のアドバイザー役を務めた片山もまた、相談役として25年ぶりに日産に復帰した。長らく日産社内では片山の存在はタブー視されていたともいわれるが、フェアレディZとともに彼もまた復権を果たしたのである。このとき1909年生まれの片山は93歳になっていた。

あらゆる車はスポーツカーとなりうる

フェアレディZの開発はそもそも、アメリカ日産の社長を務めていた片山豊の発案から始まったとされる。片山がアメリカに赴任したのは1960年で、その2年後にはアメリカ日産の設立にともない副社長に、さらに65年には社長に就任する。アメリカ日産は、それまで商社にまかせていたアメリカ国内での日産車の販売を、同社自ら責任をもって行なうべく新設されたものだ。この間、片山はアメリカ人の生活を見つめていくうち、この国で車を売るには自動車のなかでも花形であるスポーツカーをつくるのがいちばんいいと思いいたる(片山豊・財部誠一『Zカー』)。

スポーツカーとは一般的に、実用車として日常に使える性能とともに、サーキットに乗り入れたりラリーに参加もできたりする能力をも併せ持った自動車を指す。だが片山は「どんな車でもスポーツカーであり得る」と考えていた。「極端なことを言えば、トラックでもスポーツカーだと強弁できる」というのだ。事実、アメリカではトラックをスポーツカーのように使っている人たちが少なからず存在した。隠居した老人たちは、山へ遊びに行ったり畑仕事をしたりするのに、小さくて便利な日産のトラックを好んで買い求めたという。海に大勢で出かけるにも、荷台に子供やサーフボードを乗せるのに都合がいいということで好評だった。そんなふうに純粋に乗る楽しさを追究した自動車こそ、片山にとってのスポーツカーであったというわけだろう。

片山がアメリカ日産の社長となった頃、1965~66年にはトラックが1万台ベースで売れ始めていた。このことはやがて乗用車の売り上げにもつながっていく。これと前後して日産はフェアレディ1500を開発、以後も改良を進めて1600、2000とフェアレディシリーズのスポーツカーをあいついで生み出しアメリカでも販売していた。なお、フェアレディの名は当時の日産社長・川又克二がミュージカル『マイ・フェア・レディ』に感激したことから決まったものだ。ただし片山はそれでは欧米人には女性的で弱々しいイメージを与えると考え、「ダットサン・スポーツ1500」といった名前で売り出した。

フェアレディシリーズはアメリカでもよく売れたが、2人乗りのオープンカーだったため、日常で使うには快適さや安全性において難点があった。片山の現地での体験からいっても、アメリカの内陸を横断したり長距離走行するには屋根やパワーが必要だと思われた。ここから彼のなかで「日本車のイメージを思い切り塗り替えるようなスポーツカーが欲しい」という夢が膨らみ始める(片山・財部、前掲書)。

その願いを伝えるため本社に赴いた折、片山はそれに賛同してくれる設計部の人たちと出会うことになる。こうして理想のスポーツカーづくりに向けプロジェクトが始動した。このとき基本コンセプトからスケッチ・図面・設計など、終始リーダーとしての役割を担ったのは、若手デザイナーだった松尾良彦である。日産の社内では彼らの思い描くデザインはかなりマニアックなものだと異端視され、もっと普通のデザインにするようダメを出されることもあったという。

プロジェクトのメンバーがそうした反対を押し切って新たなスポーツカーを開発していく過程は、のちにNHKの人気番組『プロジェクトX』でもとりあげられ、広く知られることになった(もっとも、同番組で描かれたような「社内では日陰者だった少数の社員がフェアレディZを開発した」というのはあくまで伝説で、実際にはその開発にはもっと多くの人の協力があったという当時の日産の第一車両設計課統括の植村 ひとし の証言もある)。

こうして5年ほどかかって、ついに新たなスポーツカー・フェアレディZは完成した。日本国内で発売された翌年、1970年には「ダットサン240Z」の名でアメリカでも売り出された。240は車の排気量を表す数字で、Zは生産番号の0Z(マルZ)に由来する。価格は3600ドルと、ヨーロッパメーカーのジャガー・Eタイプやポルシェ911などの値段の3分の1に抑え、それまでスポーツカーが欲しくても手の届かなかった人たちを購買層に取り込もうとした。

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

rHiruandon ダットサンは「脱兎」 - 約4年前 replyretweetfavorite

donkou 一故人更新されました。今回はアメリカ日産を立ち上げ、歴史に残るスポーツカー・フェアレディZ(ダットサン240Z)の父と呼ばれる 約4年前 replyretweetfavorite