「あたり前のレベルを上げることで空気は変わります」
「え? で、でもどうやって……」
「浅井さん、まずはあなたが変わるのです。あなたは空気を変えることができる人なのですから」
わ、わたしが変わる? 突然のご指名にポカンとする美沙を見越して、坂井が口を開いた。
「ではもう一度、あたり前の話をしましょう。今朝遅刻をした人はいますか?」
「いませんでした」
「浅井さんは昨日みなさんにメールを送りましたか?」
「え?」
「明日は九時までに出社してください、というような主旨のメールです」
「いえ」
「では今日、家を出る頃や電車に乗るタイミングを計って、みなさんにメールを送りましたか?」
「い、いえ」
「それはなぜですか?」
「なぜって、それは普通のことですよね?」
「普通?」
「はい。恋人でもないですし、そんなメールは打ちません」
言ったそばから自身の発言に気恥ずかしさを感じる。
「浅井さんにとって“メールは送らない”。それはあたり前ですよね?」
「あ、あたり前です」
「それでもみなさん、始業時間に間に合うように出勤をしている。ということは、それは“みなさんにとってもあたり前”ということですよね?」
「そ、そうだと思います」
「浅井さんはなぜいま服を着ているんですか?」
えっ? ちょっと突然なに!? 訝りながら答えるも、何か目的があるのが坂井虎男ということを重ねる面談で美沙は知っていた。
「は、はだかでなんて歩けませんし……」
「これから夏になると40度を超える日もあります。服を着ていない方が自然じゃないですか?」
「い、いや、自然じゃないですよ」
とはいえ、自然と話す坂井の方が、よほど不自然だと思わずにはいられない。
「浅井さんは一日何回食事をとりますか?」
やはり質問攻めのパターンか。もう慣れっこ、動揺なんてしませんよ、と心で(実際声に出すほどの勇気はないのだ)前置きをし、冷静に答える。
「基本的には三回です。たまに寝坊してしまって朝食を抜いてしまうこともありますが」
「浅井さんは海外旅行をされたことはありますか?」
「はい。ニューヨークに叔母が住んでいるんです」
「いいですね。ニューヨークは私も好きな街です。英語の方は?」
うわっ、イタイところをついてくるじゃないの。せっかく平静に答えていたのに、若干の動揺が走る。
「いや、正直ニガテなのですが、行く前に少しは勉強しました。現地では辞書が手放せませんでしたけど。坂井部長もニューヨークに行かれたことがあるんですね」
「はい。実は私、世界一周をしたことがありまして」
「えっ! すごいですね! 人生で初めて会いました。実際、世界一周している人っているんですね!」
「実のところ結構、いや、かなりいますよ。多少のお金があって、航空券が取れれば誰でもできます」
「いや、誰でもできませんよ。それができる人はやっぱり特別です」
「特別、ですか」
一拍おいて坂井は続けた。
「浅井さん、服を着ることは特別ですか?」
「普通です。みんな着ていますし」
「はい。今の日本では服を着るのはあたり前ですよね。あたり前だから浅井さんも含めて、みんな服を着ているのでしょうね。食事を朝・昼・晩と三回とるのも、今の日本ではあたり前。だから浅井さんは食事を三回とっているのでしょうね」
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