巻を
『しるしなきもの』は、一気に読んだあと、「ああ、いいエンターテインメントに触れた」という実感が体内から湧いてくる。
おいしいものを食べて、「ああ、食った食った」と特に意味もない言葉をつぶやきながらお茶を啜る気分に似ているというか。マフィアもののわくわくするストーリーのなかを、個性際立つキャラクターが存分に泳ぎ回るのである。
王道でもとびっきり美味しくて、そこに秘密の隠し味を入れてある
なぜこれほど素直に楽しめる作品を書き得たのですか。これまでの作とは、書き手としても何か手応えが違うのでは?
今作については、エンターテインメント性を強く意識してあります。リーダビリティをつねに念頭に置き、話が盛り上がる山場を小刻みに入れていく。人物のキャラクターも、かなりはっきりと強調して、興味のフックを持続的に保てるようにしています。エンターテインメントとしての豊かな味付けを施したつもりです。
ストーリーの展開にしても、大枠はマフィアものであり、家系を巡るサーガです。これ、劇的なドラマをたくさん詰め込める器ですから。主人公が、バレてはいけない秘密を抱えながら行動するという「潜入捜査官」的なサスペンスの要素も入れましたし。おもしろい話の「王道」を押さえていくということを、連載のころから意識して書き進めました。
王道を踏まえつつ、そこに何かフレッシュなものを加えて更新していくというのがエンターテインメント小説のひとつの在り方だと思う。たとえば、新しい食材を探してきて、新しい料理を作るのが純文学の世界だとしたら、よくある食材からみんなが知っている料理を作って、だけどとびっきり美味しくて、その秘密にこんな隠し味を入れてある、というのがいいエンターテインメント小説じゃないかと思います。
作者としては、王道のストーリーに乗っかるよりも、もっと全面的に自分の「色」を出したい! といった欲や野心が湧いてきたりはしませんか?
僕の場合はそもそもデビュー以来、そういう傾向が強すぎるくらいにあったみたいなんです。人跡未踏のジャングルに遠征していって誰も知らない食材を探してやろう、みたいなところから小説を書こうとしていた。そういうアプローチにもロマンは感じるんですが、望みどおりに自作が広く届いていないという忸怩たる思いもあって。だったらすこしモードを変えて、もっと消費しやすい「抜けのいいエンターテインメント」をたくさんの読者へ投げかけてみようと考えるようになってきています。
純文学を自認する作家はよく、「文学とは何か」を自問して、その解を作品にしていくところがあります。同じように真藤さんは、「エンターテインメントとは何か」を問い続けて、『しるしなきもの』でその解を読者の側へ示してくれている気がします。
そうですね、ストーリーに重点を置くのがエンターテインメントでしょうし、無類に面白い物語を綴りたいというモチベーションは最初から強かったので。そこをできるかぎり掘り下げてみるつもりです。
物語ること、がエンターテインメントの要点なのですね。
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