日本建築論

​メタボリストが日本的空間に発見したもの—すき間・ひだ・奥・グレー:第4章(1)

20世紀以降の日本建築には、「日本という国への意識」が脈々と流れています。だから、日本の建築を見れば、「日本とは何か」「日本的なるものとは何か」という問いに対峙することになる。 本連載は、伊勢神宮、国会議事堂、桂離宮、日光東照宮など、シンボリックな有名建築をとりあげ、それらを巡って重ねられてきた議論を追います。日本のナショナリズムとモダニズムの相克が、いま蘇る!


○ 日本的な意匠をちりばめる

 1980年代は、ポストモダン建築の全盛期だった。前回とりあげた石井和紘が、飛雲閣から天壇まで、古今東西の様々な要素を記号としてサンプリングし、毎号のように『新建築』などの雑誌を賑わせていた。

 1960年代にメタボリズムの建築家としてデビューした黒川紀章は、1980年代に三部作というべき美術館を手がけたが、埼玉県立近代美術館(1982)、名古屋市美術館(1986)、広島市現代美術館(1989)を比べると、やはり80年代後半の2つがポストモダン的な傾向が強い。

 名古屋市美術館を詳しく見よう。全体的なイメージは必ずしも和風ではない。しかし、家型のモチーフ、2つの軸線、矩形のフレームによって空間を構成しながら、細部、あるいは外構に、鳥居、京都角屋にある欄間の猪の目(ブタの鼻のかたち)、桂離宮の敷石、茶室の間取など、日本的な意匠がちりばめられている。なお、三角屋根は、和風でなく、むしろ普遍的な家の記号というべきものだ。

名古屋市美術館〔設計:黒川紀章、1986年〕

名古屋市美術館の資料によれば、以下のように説明されている。「随所に日本の伝統的手法と色彩が盛り込まれており、西欧と日本の文化、あるいは歴史と未来の共生がこの建築の主要なテーマとなっています。内部のドア枠、窓には、西欧の建築様式や江戸の天文図等が引用され、梅鉢の紋や茶室の模擬などが採り入れられ、同様に屋外にも木曽川の風景、名古屋城の石垣等、物語性をつくりだすための記号が配置されています。これらの様々な仕掛けを、床、壁、天井、そして建物まわりから読み取ることができ、新しい発見があるのもこの美術館の特色の一つです」。

 いわば、鑑賞者がどれくらい解読できるかを試す、知的なゲームとしての建築である。当然ながら、ある程度の日本建築に関する教養がなければ、一連のかたちが何を意味するのかわからないからだ。実際、当時の建築界では、こうした知識は当たり前のように共有されていたと思われる。逆に現在はそうした教養が崩壊し、小難しい理屈は嫌われ、感覚や空間の体験が重視されるようになった。

 1989年の企画展「黒川紀章と名古屋市美術館展」のリーフレットにおいて、黒川のテキスト「共生の建築へ」はこう記している—ポストモダン的な思考は、西欧文化の二元論を批判しており、この展覧会では、歴史と現代、自然と建築、異質な文化、部分と全体の共生をテーマとした。

 そして過去から決別した近代建築に対して、歴史や伝統を摂取するとき、二つの道があるという。「ひとつは様式や装飾といった物質的な目に見える物の摂取であり、もうひとつは思想、宗教、美意識といった目に見えない精神的なものの摂取である」。

 前者の場合、「異なる時代、地域のものを単に接合するのではなく、これを共時的な象徴ないし記号の断片として分解し、そこに新しい意味を込めて記憶のフラグメントとしてより間接的に使っていく必要がある」。名古屋市美術館の鳥居や茶室は、こうして断片化された記号だろう。また後者の場合、「ソフィスティケートされた現代の時代精神として、現代建築の中に生かしていく」知的操作が重要になる。


○黒川紀章と共生の思想

 当時の黒川の著作『共生の思想』(徳間書店、1987年)では、こう述べている。「私は、自宅で先端技術と伝統との共生する生活を楽しんでいる。私の地上十一階の自宅には、コンピュータを置いた書斎に隣接して、唯識庵という茶室が設けてある」。ハイテクと和だ。

 そしてわび数寄に対して、新しい言葉「花数寄」を提唱する。従来、わびは寡黙で簡素とされ、無の美学とされたが、「饒舌と寡黙、明と暗、複雑と簡素、装飾と非装飾、カラフルと無彩色、書院風と草庵風が共生した美意識が本来の日本的美意識の伝統ではなかったか」という。つまり、二重のコードをもつ、「華麗と簡素の感覚を内蔵した両義的な、共生の美意識である」。

 ゆえに、ブルーノ・タウトによる桂離宮のモダニズム的な評価は、一面的だったと批判する。桂の細部を観察すると、十分に装飾的であるし、むしろ対極に見えるような桂離宮と東照宮を同時期につくったことが凄いと指摘した。また江戸は高度な近代化社会であり、「雑居性」、「微妙な感受性」、「細密なディテールに対するこだわり」、「技術と人間の共生」、「建築における混在様式の成立」が特質だという。

 対立する要素を抱え込むことは、ポストモダン建築論の始祖であるロバート・ヴェンチューリがすでに掲げていたが、黒川はこの議論を日本的なものと融合させながら、変奏を繰り返した。『グレーの文化 日本的空間としての「縁」』(創世記、1977年)では、「利休ねずみとは、矛盾するいくつかの要素を衝突させて、相殺することによって得られる共存的連続の状態、あるいは非感覚的状態であって、利休は、利休ねずみという色彩感覚によって、時空間を一時的に凍結して二次元の世界、平面の世界を創り出そうとしたのではないか」という。そしてこれは光と影のコントラストが強く、立体的な西欧の空間にないものと位置づけた。

 石井のポストモダンが、引用やコピーに注目するのに対して、黒川はより抽象度が高い日本空間論を展開している。実際、1970年代の黒川建築は、日本的なモチーフを直接的に模倣するものは少ない。記号としてのデザインよりも、空間的な操作が目立つ。これは前述した物の摂取ではなく、精神的なものの摂取と言えるだろう。


○仏教に影響された空間論

 『グレーの文化』では、日本の都市空間をこう論じている。「移動する視点が町屋のファサードや街の空間を絵巻物に画かれたように平面的な要素に分解させています」。「回遊式の庭園を巡りながら展開する桂離宮の構成」も同様に、「限定された一点からの遠近感をまったく拒否しています。移動する視点に対応して分解された二次元の世界(平面の世界)です。そして、その演出効果は、薄暮のグレーの色彩の中でドラマティックに展開する」。

 黒川によれば、日本の絵画、音楽、演劇、建築、都市にも「二次元性」があるという。後に村上隆が提唱した超平面、すなわちスーパーフラットを予見するような議論だ。が、このコンセプトをさらに仏教と結びつけたのは、黒川の個性だろう。彼は、こう述べている。「仏教哲学をぬきにしては考えられない日本文化の特質だと思われる」。そして「空(くう)に色彩があるとすれば、それは利休ねずみだろうと思う」。

 黒川は中高生のとき、東海学園で仏教思想と出会った。共生という言葉も、ここでの学園長の教えから導かれたものである。戦前、岸田日出刀やタウトらによって、神道的なものがシンプルなモダニズムのデザインと関連づけられたことを考えると、戦後に黒川が仏教思想の影響を受けながら、ポストモダンを開拓したのは興味深い。

 彼の著作『道の建築 中間領域へ』(丸善、1983年)では、「東洋の都市には広場はない」、そして「西欧の都市には道はない」という。やはり西欧の二元論に対し、共存の哲学を通じて、多元論をめざした。「東洋の都市においては、建築が道に対して開いた空間を持っており、生活が道に溢れ、交通と生活が共存していたことを意味する。建築と都市とがはじめから同一のものとして溶解していたともいえる」。一方、ヨーロッパの都市空間は、建築が道路に対して閉鎖的だ。本書のあとがきでは、こう述べている。「私は下町を歩くのが好きである。……道路という本来外部の空間を建築、つまり内部空間として認識しなおすことによって、道(路地)を復権させようという気持ちが、私に道の建築をつくらせた」。

 また日本の原風景が、「山の辺の水の辺」であるという樋口忠彦の説を紹介しながら、以下のように論じている。日本の農村の典型的な風景は、「神の領域と俗の領域の出会う中間領域であり、自然の領域と、人工の領域の出会う中間領域であり、山や丘陵の傾斜面と水田や平野の水平面の出会う中間領域なのである」。

 こうした中間領域の多義性に注目し、福岡銀行本店(1975)、東京大同生命ビル(1978)、松濤倶楽部(1980)、埼玉県立近代美術館のエントランス周辺などで、内部と外部の特性をあわせもつ曖昧な中間領域を創出した。道の建築化にしろ、中間領域にしろ、いささかリテラルに過ぎた側面もなくはないが、黒川が日本的なものを空間のデザイン論に接続させたことは重要だろう。

埼玉県立近代美術館


○ 重層する境界と奥の思想

 黒川と同じメタボリズムのメンバーだった槇文彦は、『見えがくれする都市』(鹿島出版会、1980年)において興味深い日本の空間論を提示した。これは大野秀敏らが参加した、江戸時代から近代以降の東京における都市の形態・景観要素のリサーチの成果をまとめたものである。記号論に回収せず、自然の微地形にも向けられた本書のまなざしは、『アースダイバー』やスリバチ学会が登場したゼロ年代以降の都市論の流れからも再評価しうるものだろう。

 槇によれば、日本の都市空間の形態と領域を特徴づけるのは、「すき間」である。これは西欧の都市における「地と図」のようなはっきりした形態をもたないが、「単なる残余空間でもなく、むしろ都市空間に独特の緊張感をあたえる、一つの媒体空間と見なしうる」。そして彼は、碁の布石における石と石の間の意味のあるすき間になぞらえた。「西欧の都市における一元的でハードな境界にくらべて、日本の境界は遥かにあいまいであり、ソフトである」。

 同時期に、黒川が明快なかたちをもつ西欧的な広場ではなく、建築と都市、あるいは内部と外部の中間というべき道に注目したのと近い関心の持ち方だが、槇はさらに細かく空間の体験を分析した。繊細なディテールの建築を設計する、彼らしい視点である。そして「日本の境界は、重層しており多元的である」という。

 「内外を完全にしきるものを太い線で描くとする時、日本の境界は破線あるいは何本も引かれた細い線の集まりと考えることが出来る。つまり、明確に領域によって、内と外、左と右を分けるのでなく、むしろ区別されるべきところでは左と右、内と外とが混在化し、不明確になっている。そもそも日本の家屋の仕切りは、縁側、庇、障子などによって、この内外の環境の重合性を共有してきた。とすれば、よりひろい都市環境における境界、あるいは周縁性に対して、同様な感覚をもっていたとしても不思議ではない」。

 槇の論考「奥の思想」は、以下のように指摘する。「空間のひだの重層性は、私が世界中の様々な都市を見、歩いてみて他の地域社会になく、しかも日本においてのみ発見しうる最も特徴的な数少ない現象のひとつである。……奥という概念を設置することによって比較的狭小の空間をも深化させることを可能にしてきた」。

 奥とは、日本独特の空間概念である。例えば、書院造の場合、奥は裏ではなく、独特の方向性、すなわち斜め奥の軸が重要になるという。西欧のゴシックなど、中心の思想は垂直性に伸びていくが、日本における「「奥」は水平性を強調し、見えざる深さにその象徴性を求める」。「奥性は最後に到達した極点として、そのものにクライマックスはない場合が多い。そこへたどりつくプロセスにドラマと儀式性を求める。つまり高さでなく水平的な深さの演出だからである」。

 おそらく、槇の代表作である代官山のヒルサイドテラスこそが、こうした空間論の実践だった。1969年から40年以上、7期にわたって、ストリート沿いに、同じ設計者による建物が少しずつ足されていく。まさに碁石をひとつひとつ打つように街並みがつくられた、奇跡のようなプロジェクトである。

代官山ヒルサイドテラス〔設計:槇文彦〕模型

代官山ヒルサイドテラス〔設計:槇文彦〕外観

 デザインは洗練されたモダニズムをベースとしており、いわゆる和風ではない。傾斜した屋根もない。しかし、身体性に訴える奥の感覚や路地のような空間性をもち、ここに海外からの来客を案内すると、日本らしさを強く感じると言われたことがあった。また槇が変化する建築を提唱したメタボリズムに関わっていたことを考慮すると、ヒルサイドテラスは一度で完成せず、時間の流れのなかで継続的に成長していく建築であり、もっとも良質なメタボリズムの成果だったのかもしれない。


※次回掲載は4月17日です。


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日本建築論

五十嵐太郎

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市...もっと読む

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コメント

ctaxis 黒川紀章のポストモダンに 仏教思想を持ち込んだソースとして、東海中高に言及する五十嵐さん https://t.co/OA0tAFc87g 滝は無宗教だったからな🙄 2年以上前 replyretweetfavorite

velvetcomp 豊国神社での体験がこういうところで繋がってきたか> 2年以上前 replyretweetfavorite

yuhi_ohyanagi メタボリストが日本的空間に発見したものーーすき間・ひだ・奥・グレー:第4章(1)|五十嵐太郎 @taroigarashi | 4年弱前 replyretweetfavorite

saz_go 「実際、当時の建築界では、こうした知識は当たり前のように共有されていたと思われる。逆に現在はそうした教養が崩壊し、小難しい理屈は嫌われ、感覚や空間の体験が重視されるようになった。」 https://t.co/2W1lxIxyio 約5年前 replyretweetfavorite