日本の高度経済成長が生んだ異色のタレント・タモリ

「タモリの地図」、今回が本編の最終回です。ちょうど一年に渡って、終戦の年に生まれたタモリと、日本の戦後史を並走させて時代を辿ってきました。タモリがいかにしてタモリになったのか、そこには戦後経済成長とは切っても切れない関係がありました。今回はあらためて、タモリと日本の戦後について振り返ります。

終戦直後に生まれ古希を迎えた稀代の司会者の半生と、 敗戦から70年が経過した日本。
双方を重ね合わせることで、 あらためて戦後ニッポンの歩みを 検証・考察した、新感覚現代史!
まったくあたらしいタモリ本! タモリとは「日本の戦後」そのものだった!

タモリと戦後ニッポン(講談社現代新書)

70歳の地図—タモリとニッポンの70年 2

「場の芸人」としての森繁とタモリ

森繁久彌は古川ロッパの一座をやめたのち1939年、満洲(現在の中国東北部)に渡った。当時の日本の傀儡国家・満州国にあった新京中央放送局(新京は現在の長春)にアナウンサーとして赴任するためで、その後終戦を挟んで1946年に日本に引き揚げてくる。満洲行きは、才気走りすぎていたがために風当たりの強かった日本から離れるためであったという。

満洲で森繁は、終戦直前に参戦したソ連軍に捕えられるなど辛酸を舐めた。そればかりか、俳優として再度脚光を浴びるのは帰国した3年後のムーラン・ルージュ(新宿を拠点とした軽演劇の劇団)入りまで待たねばならず、彼にとって満洲時代は不遇時代と位置づけられる。それでも宴席などでは、余興に歌をうたったり小噺を披露したりと芸達者ぶりを発揮したという。

戦争末期の1945年5月に満洲へ興行にやって来た落語家の古今亭志ん生(五代目)と三遊亭圓生(六代目)の世話役を務めたときもそうだった。志ん生はこのときしばらく森繁のことを旅行の添乗員か何かと勘違いしていたようだが、やがて連日のように彼の芸を見るうち《あんたは、こんなところでマゴマゴしてる人間じゃァないよ、東京へ来て、寄席へでも出たら、きっと売り出すよ。あたしが太鼓判押したっていい》と褒めそやしたという(古今亭志ん生『びんぼう自慢』)。終戦の1カ月前、7月中頃には新京放送局の幹部たちの私的な宴席で、志ん生と圓生に司会の森繁も加わり艶笑噺をかわるがわる披露して大いに盛り上がったという話も伝わる。森繁だけでなく志ん生も圓生も黄金時代を迎えるのは戦後のことだが、《黄金時代というものは、ピンポイントが白熱化して始まるもののようだ》と満洲での宴席をのちの彼らの活躍の原点と見なしたのは評論家の平岡正明である(『志ん生的、文楽的』)。

平岡といえば、密室芸で売り出した初期タモリについて《タモリは場の芸人である。場とは、主体と客体の変容するエネルギーの容器である》と書いていたのを思い出す(『タモリだよ!』)。これを踏まえれば、森繁こそタモリに30年先行した「場の芸人」ではなかったか。テレビドラマ『ふぞろいの林檎たち』などで知られる元TBSのプロデューサーの大山勝美の以下の発言は、タモリの名前も出しながら、森繁久彌がまさに満洲という「場」で芸を築き上げたことを指摘している。

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この連載がついに書籍化!「森田一義」はいかにして「タモリ」になったのか。関係者への追加取材や大幅加筆でその足跡をさらに浮き彫りにします!

この連載について

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タモリの地図—森田一義と歩く戦後史

近藤正高

2014年3月31日、『笑っていいとも!』が32年間の歴史に幕を下ろしました。約32年間、毎日テレビに出続け今や国民的タレントになったタモリ。そんな「昼の顔」だけでなく、アングラ芸で身を起こし、深夜番組『タモリ倶楽部』で披露する「夜の...もっと読む

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コメント

donkou ケイクスでのタモリ連載、本編が最終回を迎えました。大団円として来週にもう1回、あとがきのようなものを掲載する予定です。 5年弱前 replyretweetfavorite

suisenteikyohji 「後年の芸風へとつながる都市的なものへの志向と田舎への嫌悪」と「高度成長が日本社会にもたらしたあらゆる面での均質化・平均化」の化合> 5年弱前 replyretweetfavorite