イラスト:さんぺい(@k_sanpei)
磯崎は1972年、大阪で生まれた。プログラマとしての磯崎のプロフィールは、5歳のときプログラミングを始めた、という恐るべきエピソードから始まる。この磯崎の早熟ぶりを示す話は、まともに取り合ってもらえないことも多い。5歳で将棋を覚える子どもはいても、プログラミングを始める、という子どもはほとんどいないだろう。
きっかけは偶然だった。磯崎の友達の父が、当時はまだ珍しかった、マイコンを持っていた。正確に言えば、組立式の、ワンボードのマイコンキットだ。機種名はTK-80という。この名にノスタルジアを覚えるとすれば、コンピュータとの付き合いがよほど古い方だろう。1976年にNEC から発売されたTK-80はその後の「マイコンブーム」の先駆けとなった。
磯崎は友達の父にマシンコードの概念を教えられ、すぐに理解した。機械語が使えるようになり、数週間後には、数字をモグラに見立てた、モグラ叩きゲームを作るまでになった。
小学3年生のときには、オセロのプログラムまで完成させた。形だけで判断する先読みなしのアルゴリズムで、強いわけではなかったが、きちんと遊ぶことができた。
当時、将棋ソフトがなかなか強くならないのとは対照的に、オセロはかなりレベルの高いソフトが作られていた。コンピュータ雑誌『月刊アスキー』ではオセロのソフト同士を対戦させる大会まで開催されていた。磯崎少年は夢中になって、その連載記事を読んでいた。その大会で連覇記録を作ったのが、当時医大生の森田和郎が作成した、「森田オセロ」だった。
「今でいうponanzaと同じですよね。本当に強かった」
と磯崎は当時を回想する。森田独自の高速化技法と、評価関数の手動による調整が飛び抜けて優れていたと、磯崎は見ている。
森田は1985年に「森田和郎の将棋」(通称:森田将棋)を発表。こちらも当時にあっては、革新的に強い将棋ソフトだった。
ドキュメント コンピュータ将棋 天才たちが紡ぐドラマ 早くも話題沸騰!!
磯崎は中学の時、親しい友人の家の屋根裏部屋で、ゲーム制作会議を開いていた。屋根裏にちなんで、「Studio Attic」というサークル名をつけた。磯崎の現在の通称の由来でもある。やがて高校受験を機に、友人はサークルの終わりを宣言する。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。