第19回】天才やねうらお

プロ棋士と互角以上の戦いを繰り広げるまでに進化した将棋ソフト。不可能を可能にしてきた開発者たちの発想と苦悩、そして迎え撃つプロ棋士の矜持と戦略。天才たちの素顔と、互いのプライドを賭けた戦いの軌跡。今日までのコンピュータ将棋に関する最前線を追った『ドキュメント コンピュータ将棋』が3月25日発売。本連載では、本書から特に電王戦FINAL出場者たちの素顔や想いの部分を抜粋して紹介していきます。


イラスト:さんぺい(@k_sanpei)

 磯崎は1972年、大阪で生まれた。プログラマとしての磯崎のプロフィールは、5歳のときプログラミングを始めた、という恐るべきエピソードから始まる。この磯崎の早熟ぶりを示す話は、まともに取り合ってもらえないことも多い。5歳で将棋を覚える子どもはいても、プログラミングを始める、という子どもはほとんどいないだろう。

 きっかけは偶然だった。磯崎の友達の父が、当時はまだ珍しかった、マイコンを持っていた。正確に言えば、組立式の、ワンボードのマイコンキットだ。機種名はTK-80という。この名にノスタルジアを覚えるとすれば、コンピュータとの付き合いがよほど古い方だろう。1976年にNEC から発売されたTK-80はその後の「マイコンブーム」の先駆けとなった。

 磯崎は友達の父にマシンコードの概念を教えられ、すぐに理解した。機械語が使えるようになり、数週間後には、数字をモグラに見立てた、モグラ叩きゲームを作るまでになった。
 小学3年生のときには、オセロのプログラムまで完成させた。形だけで判断する先読みなしのアルゴリズムで、強いわけではなかったが、きちんと遊ぶことができた。

 当時、将棋ソフトがなかなか強くならないのとは対照的に、オセロはかなりレベルの高いソフトが作られていた。コンピュータ雑誌『月刊アスキー』ではオセロのソフト同士を対戦させる大会まで開催されていた。磯崎少年は夢中になって、その連載記事を読んでいた。その大会で連覇記録を作ったのが、当時医大生の森田和郎が作成した、「森田オセロ」だった。
「今でいうponanzaと同じですよね。本当に強かった」
 と磯崎は当時を回想する。森田独自の高速化技法と、評価関数の手動による調整が飛び抜けて優れていたと、磯崎は見ている。
 森田は1985年に「森田和郎の将棋」(通称:森田将棋)を発表。こちらも当時にあっては、革新的に強い将棋ソフトだった。


ドキュメント コンピュータ将棋 天才たちが紡ぐドラマ 早くも話題沸騰!!

 磯崎は中学の時、親しい友人の家の屋根裏部屋で、ゲーム制作会議を開いていた。屋根裏にちなんで、「Studio Attic」というサークル名をつけた。磯崎の現在の通称の由来でもある。やがて高校受験を機に、友人はサークルの終わりを宣言する。

 磯崎はその時の心情を次のように記している。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes・note会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

角川新書

この連載について

初回を読む
ドキュメント コンピュータ将棋

松本博文

プロ棋士と互角以上の戦いを繰り広げるまでに進化した将棋ソフト。不可能を可能にしてきた開発者たちの発想と苦悩、そして迎え撃つプロ棋士の矜持と戦略。天才たちの素顔と、互いのプライドを賭けた戦いの軌跡。今日までのコンピュータ将棋に関する最前...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

jomonsugi10000 5歳。「友達の父にマシンコードの概念を教えられ、すぐに理解した。機械語が使えるようになり、数週間後には、数字をモグラに見立てた、モグラ叩きゲームを作るまでになった」https://t.co/FjS1bOHnWc 3年以上前 replyretweetfavorite

admiral_cameron 「やねうらお」誕生の理由ぐっとくるな. 3年以上前 replyretweetfavorite

yskmjp やねうら王の磯崎さんってBM98作った人だったのか。懐かしすぎる。 3年以上前 replyretweetfavorite