満足に働きたいと思いつつ、なぜ働けないのか。
今ならよく分かる。私は逃げていたのだ。心の奥底にある、本当の望みから。
本当は死ぬほど書く仕事がしたい。自分の名前で本を書いている、イケてる人たちに心底、憧れる。でも、自分はそこに行けない。せいぜい、サポートするだけ。悔しい。
でも、新卒無職の人間を、いきなりライターとして雇ってくれるところなんて、あるわけない。そもそも自分にそれだけの実力があるなんて、とうてい思わない。それに、もし挑戦して、それが叶わなかったら、私は一体、どうしよう。
「本当の望みなんて、叶うわけがない」
そういう、さわやかでない諦めを抱えながら、私はいつもくすぶっていた。くすぶりながら、現実的な「第二志望」をジプシーして、でもいつも「どこか違う」と不満を言っていた。「第二志望」なんだから、「どこか違う」のは、自明のことなのに。
欲しいものは、崖の向こうにある。でも、飛べない。崖の向こう側をチラ見しつつ、「どうせ飛べないし」とふてくされ、だからってチラ見をやめることもできずに地団駄を踏んでいる人間。そうやって、見たくないものからも、「本当に見たいもの」からも、目をそらし続ける人間。それが私だった。
私は自分の予想通り、数ヶ月でその店を辞めた。マスターは最後まで、ニヤニヤしていた。最後まで、「自分の世界に酔ってる」私に、ダメとも悪いとも、何にも言わなかった。
社会が怖い。
私はこの頃、完全な「精神的ひきこもり」だった。
働かないんじゃない。本当は働けないわけでもない。ただ、自分に自信が無い。人とのコミュニケーションを過剰に恐れるのは、最初っから自分の世界に閉じこもっているほうが、現実を見ないでいるほうが、ラクだからだ。
本当は、働きたい。でも、防空壕の中にいるうちは、安全だ。外は、怖い。爆弾がどんどん落とされている、はずだ、きっと。見たことないけど。
そうしているうちに、自分には価値がないと思いたくなくて、だんだん、周りをばかにしはじめる。自分と、他人をばかにしながら、頭蓋の中できりきりと舞いながら、だんだん、防空壕から出られなくなる。
私は社会とコミュニケーションがとれなくなっている人間の気持ちがよく分かる。ニート、ひきこもり。自分探しに夢中になっている人の、現実認識がちょっとおかしくなる感じ。彼らは自分の世界に酔ってるのだ。本当の現実があるのは分かっている。でも、そこに自分の膜を破って出て行くほどの自信がない。そんな自分はきっと、何をやってもダメなんだ……。そのジレンマに苦しみながら、自分の世界で自分を慰め続ける。
テレビのコメンテーターからすると「幼稚な願望の表れ」かもしれないし、社会学者に言わせたらある種の病なのかもしれない。