第一章 出会いの長い夜(4)

蒔野と洋子は、言葉を交わすほど心の奥底で、通じ合うものを感じ続ける。洋子の生い立ちに触れる中で、洋子が過去の話をはじめた。2人の出会いの夜は更に濃密な時間となって、展開されていく……。

洋子は頬を緩めると、ワインを一口飲んで言った。

「バグダッドに行く前に、何か美しいものに触れておきたかったんです。それで今日は、蒔野さんのコンサートに来ました。演奏を聴けて、本当に良かったです。」

「戻ったら、また是非いらしてください。ご招待します。今はお住まいは?」

「パリです。ええ、でもどこかで是非。それまでは、イラクでipodで聴いてます。」

「わたしに連絡してくだされば、いつでも席をお取りしますので。」

 マネージャーの三谷は、そう言って改めて名刺の交換をした。

「ありがとうございます。」

「パリは、もう長いんですか? 蒔野さんもしばらく住んでたんですよ。」

「そうなんですか? わたしは、この仕事を始めてからです。十年くらいかな。わたし、ジュネーヴで育ったんです。」

「コロンビア大学を出られたんでしょう?」

 洋子は、三谷の方を向いて小首を傾げた。

「さっき、タクシーの中でお父様のウィキペディアを見て。」

「ああ、……そんなことまで出てるんですね。元々は、オックスフォードで文学を勉強してました。そのあとコロンビアの大学院に行って、ジャーナリズムを専攻して。」

「すっごいエリートなんですね!」

「全然。世の中、すごい人はたくさんいますから。ただ、母子家庭でしたから、母には感謝してます。意地なんですよね、父に対する。母の存在は、父の経歴の中では“なかったこと”になってて、公の場では、一切触れないです。わたしの情報が、どうして父のウィキペディアに出てるのか、ふしぎですけど。ネットは、いやですね、そういうところが。」

 洋子は、何でもないことのように話したが、聴く方がしんとなってしまった。三谷は、気を回して話を元に戻した。

「洋子さんって、え、じゃあ、何カ国語喋れるんですか?」

「基本は、日本語、フランス語、英語、あと、大学でドイツ語を。リルケを勉強してましたから。あと、ラテン語は読めます。それで、多少わかる言葉もありますけど—ルーマニア語とか—会話は難しいです。だから、何カ国語っていうのか、……」

「すごーい!」

「でも、本当は父の母語のクロアチア語を話せるようになりたかったんです。わたし、子供の頃は英語を話せなかったので、父と会っても会話できなかったんです。—そうです、ええ。母は父と英語で喋ってましたから、その時は、父だけじゃなくて母の言葉もわからなくて。泣いちゃいましたよ、自分は誰の子供なんだろうって。だから、英語は一生懸命、勉強しました。それでも、父にとってもわたしにとっても、母語じゃないですからね。……たとえ何十カ国語を話せたとしても、父親の母語を理解できないっていうのは、すごく寂しいです。」
 洋子はやはり、まったく感傷的でない口調で、笑顔を交えながら、その複雑な事情を語った。蒔野は、その態度に敬服して、口にフォークでオムレツを運びかけたまま、そういう親子もいるんだなと考えた。そして、父親と向かいあったまま、ただ微笑むことしかできない少女の姿を想像した。どんな顔だったのだろう? 今のように、娘は父親に似ていたのだろうか? 母と暮らしていた彼女は、自分の顔が、この人に似ているということを、その時に発見しただろうか? ソリッチはきっとそう思っただろう、俺に似ていると。そしてそのことを、お互いに直接伝えあう術はなかったのだった。

 蒔野自身は、それと真逆だった。彼は幼時から、ギター愛好家だった父の“夢”として育てられていた。ギターは、まだ幼稚園に通っていた頃から、既に親子の共通言語だった。彼は実際に、音楽を奏でるというより、ギターで面白おかしく喋っていたのだった。そういう感覚だった。そして、彼らの場合、むしろ父は、上達とともに、子供の言葉が少しずつわからなくなっていったのだったが。……

—わたしなんて、自慢できるのは博多弁くらいですよ! 英語もなかなか上手にならないし。」

 洋子と三谷の会話は続いていた。洋子が漏らした父との逸話は、あまり深入りしないままやり過ごされたようだった。

「福岡の方なんですか?」

「生まれも育ちも!」

「九州女の情の強さに参ってますよ。」

 蒔野はからかうように言った。


「わたしの母のルーツは長崎です。」
「えっ、九州なんですか?」

 三谷は、テーブルの端の者まで振り返るような大声を出した。

「ええ。夏や冬には、よく祖母の家に遊びに行きましたから。海でも泳いだし。」

「へー、急に親近感が湧きますね。なんか、日本人って感じで。」

「日本的だと思います、わたし。実際、よく言われますし。父の方はルーツが複雑なんです。父方はオーストリア系イタリア人で、母方は元々はブルガリア系ですから。でも、母はシンプルです。祖母の真似をして、長崎弁も覚えましたし。日本語の方言、だから、とっても好きなんです。おかしな話ですけど、何弁を聞いても、懐かしく感じるんです。女性の博多弁、チャーミングですよ。すっごくかわいい。長崎弁ともちょっと近いですし。」

「そうっちゃろ? ほら、洋子さんもそう言ってますよ、蒔野さん!—今でも帰省したりします?」

「実は、一昨年、その祖母が亡くなってしまって。」

「あ、……ごめんなさい。」

「いえ、もう九十でしたから。若い頃からずっとヨーロッパで暮らしてきた母も、とうとう観念して、十年ちょっと前から同居してました。でも、介護が必要なわけでもなくて、とっても元気で。祖母は最後は、病気じゃなくて、転んでしまったんです。」

「あぁ、お気の毒に。今のお年寄りってみんな元気だから、それが一番怖いんですよね。」

「本当に。わたしは、さっき言った父方の祖父母は全然知らないんです。だから、日本の祖母は、とても大切な存在でした。—祖母は、転んだ時に、庭石で頭を打ってしまったんです。これくらいの天然石で、わたしは子供の頃、よくそれをテーブルに見立てて、赤い南天の実と葉っぱを並べて、いとことままごとをして遊んでました。その石が、まさか将来、祖母の命を奪ってしまうなんて。……」

 三谷は、運ばれてきたパエリアを彼女のために取りわけてやりながら、

「でも、その年齢のおばあちゃんなら、どこで転んで怪我したっておかしくないですし。しょうがないですよ。」と慰めるように言った。


(つづく)

平野啓一郎・著 石井正信・画

コルク

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マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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コメント

Kanaerror 色や音さえ浮かぶような文章。穏やかに流れる時間が、どんな愛に変わるのか、楽しみ。ただ、挿し絵のイメージが違いすぎて残念。 > 5年以上前 replyretweetfavorite

consaba 蒔野と洋子は、言葉を交わすほど心の奥底で、通じ合うものを感じ続ける。  5年以上前 replyretweetfavorite

corkagency 平野啓一郎「マチネの終わりに」 @hiranok 物語は、二人の出会いの夜へと進み、洋子の過去の話がはじまりますーー 5年以上前 replyretweetfavorite