「おはようございます」
「はようっす」
昨晩は彩名と二人でワインを3本空けた。さすがに二日酔いの美沙だったが、なんとか背筋を伸ばしいつもより声を張って言った。そして昨日知ったばかりの名言を誰かに言いたい、そんな衝動に駆られた美沙は気付いたら口にしていた。
「草加くん、『成功の前に努力がくるのは辞書の中だけである』」
「ヴィダル・サスーン」
「えっ、知ってるの?」
予期せぬ返答に少しばかり気落ちする。
「あっ、すんません。ここ、知らないフリするとこでしたよね。先輩を立てられない“ゆとり”ですんません」
わざとらしい草加の発言に、わざとらしく膨れてみる。職場でなかなか地が出せない美沙であったが、草加の態度には自然と地が出てしまう。すると美沙の前に、おもむろに白い箱が差し出された。
「あっ」瞬時に頬がゆるむ。そんな美沙を見つめ右口角を上げニヤリとしながら草加は言った。
「ダースホワイト美味しいですよね」
『12個だからダースです』でおなじみのチョコレートダースは、オフィスで疲れたときにいつも美沙が口にするものだった。そしてとりわけ美沙がホワイト好きなことを、草加は知っているようだ。どうぞという代わりに草加はさらにダースを美沙に近づける。単純すぎる自分が情けないが、美沙は差し出されたチョコをとりあえず口に入れた。すると不本意にもふたたび自然と頬がゆるむ。
その様子を確認した草加は、ここぞとばかりに切り込んできた。
「でも浅井さん、突然ヴィダル・サスーンどうしたんすか?」
「いや、ちょっとね。それより草加くんこそ、何で知ってるの?」
「叔父が名言好きで。幼い頃からよく聞かされてたんすよね」
「そうなんだ。お気に入りの名言は?」
「そうっすね……」
すると村中達也の声が草加と美沙の間に割って入ってきた。
「草加、わるい!」
「えっ、何ですか?」
草加は横目で美沙に謝罪し、村中に向き合った。
草加壮太。まったく調子のイイコ。しかし美沙にとって、草加との会話はむしろ心地がいいと言えた。美沙は草加とのおしゃべりで、昨日の心のざわめきが少しだけ落ち着きを取り戻せた気がしていた。
「草加、営業会議資料だけど、あれ午前中までだったよな?」
「そうですけど。あと村中さんだけですよ」
「それがさ、すっかり忘れてて。午後でもいい?」
「明日は有休なんで、ちょっと困りますね。今日の午後にまとめる作業しようと思ってたんで」
「マジか~」
「マジっす」
「しゃーない。じゃ、超特急でやるわ」
えっ? 超特急でやるんだ。てか、できるんだ。ふたりのやり取りを横目で見ていた美沙は驚いた。
「あざっす!」
勢い余って、草加語でちゃってるし。許可を得られなかった村中達也は、寂しげにも超特急で自席へと戻っていった。
「ちょっと草加くん、『有休だから困る』とか平気で先輩に言うから、ちょっとびっくりしちゃったよ」少しだけ椅子を近づけ隣の草加に小声で言う。
「だって事実ですから。有休っていうのは事前にみんなにメールしてたはずだし、期限は午前だったわけだし、あたり前じゃないですか? オレ、間違ってますか?」
こちらの小声という気遣いにまったく構うことなく、堂々と草加は切り返した。必要以上にこちらが動揺してしまう。
「いや、ま、まちがってない」
「あざっす」
草加は嬉しそうに目じりに皺を寄せた。
すると背後から不吉な声が耳に届いた。
「浅井さん、ちょっといいですか?」
もう振り向かなくても美沙には誰だかわかる。この低くて太い声の主はひとりしかいない。いつもちょっともよくないタイミングで現れる(精神的に)。坂井虎男だ。
「はい」
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