第一章 出会いの長い夜(3)

コンサート後、小峰洋子と出会った蒔野は彼女が憧れの映画監督の娘と知る。打ち上げの夜、演奏時とはまた違った形で、周囲の人々を楽しませる蒔野。洋子と蒔野は以前から惹かれ合う運命だったかのように言葉を交わしはじめる……。

「二番目の日本人の妻の娘です。わたしが物心つく前に離婚してますから、父と一緒に生活した記憶はないんですけど。でも、今でも交流はあります。」

「そうなんですか!? いや、《幸福の硬貨》は、僕がギターを本当に好きになったきっかけの映画なんです。子供の頃から、何度繰り返し見たことか!……そうですか。お父様のことは、本当に尊敬してるんです。本当に!」

「ありがとうございます。父の作品について、そう言ってくださってること、知ってました。わたし実は、蒔野さんの演奏を聴くの、二回目なんです。パリ国際ギター・コンクールで優勝したあと、母と聴きに行きましたから。日本人なんだって!って。サル・プレイエル、でしたよね、直後のコンサート?」

「えっ、……本当ですか? 参ったな。いや、光栄ですけど、……ヘタだったからなぁ、まだ。」

「いえ。あんまり素晴らしくて、わたし、蒔野さんにとても嫉妬したんです、その時。父の映画のテーマ曲を、わたしより二つ年下の日本の高校生が、こんなに立派に演奏して、拍手喝采を浴びてるなんて! 許せないって。すごく不機嫌になりましたから。」

 洋子は、そう言って、鼻梁にキュッと小皺を寄せて白い歯を見せた。子供みたいに笑うんだなと、蒔野は思った。

 会場を出る時間が迫っていたが、二人の会話は尽きる気配がなかった。それは、最初だから、、、、、というのではなく、最初から、、、、尽きない性質のものであるかのようだった。

 電話をかけに少し外していた三谷が戻って来ると、打ち上げ会場に移動するように促した。洋子はオメガの腕時計にちらと目を遣って、「もうこんな時間。すみませんでした、お疲れのところを。」と、それを潮に帰ろうとした。

 蒔野は勢い、「良かったら、打ち上げに来られませんか? もう少しお話をしたいんですが。」と誘った。是永も、それを受けて、「行きましょうよ!」と彼女の腕を取った。

 洋子は、躊躇うふうだったが、もう一度時計を見て、「じゃ少しだけ、お邪魔でなければ。」と同意した。タクシーに分乗して、ワンメーターほどの距離にある、馴染みのスペイン料理店に向かった。もう十一時近くだった。

 間接照明の仄暗い店内は、予約したテーブルを除いて満席の賑わいだった。

 フラメンコが流れていて、レジ周りの白い土壁には、来店者のサインが溢れている。洋子は、コートを脱ぎながら、丁度、今、ギターが聞こえているパコ・デ・ルシアのサインを見ていた。正面からはあまり感じなかったが、横顔には確かに父親のソリッチの面影があった。何かを見て、感じ、考えているその雰囲気のせいか。

 洋子は、蒔野の視線に気がつくと、そのサインを指さして振り返った。タクシーには分かれて乗ったので、目が合ったのはそれが二度目だった。芸術家との交流にも馴れているふうで、コンサートの感想を充分に伝えた後は、別段、臆することもなく、自然に関係者の輪の中に居場所を見つけていた。蒔野は、自分の方こそむしろ、彼女に何か、憧れに似た感情を抱いているのを意識した。

『あのソリッチの娘なのか。……ちょっと近寄りがたい、知的な雰囲気の美人だけど、表情が案外、やさしいというのか、親しみやすいというのか、な。……』

 八人でテーブルを囲んで、カバで乾杯した。料理が次々と運ばれてきて、居酒屋のように皆で皿を回しあった。

 蒔野は、いつも通り饒舌だった。スタッフらが、丁度、写真家の大御所の富岡慎弥の話をしていたので、それに加わって、ツアー終盤の京都からの帰りの新幹線の話をした。

「いや、乗ったらさ、その富岡さんがいたんだよ、俺の一つ前の席に。で、あの人、気難しいからさ、あんまり話しかけたくなかったんだけど、なんか、目が合っちゃったし、無視するわけにもいかないから、一応、挨拶に行ったんだよね。どうも、ご無沙汰してます、蒔野ですって。そしたら、さ! 例の気取った調子で、チラッとこっちを見ただけで無視するんだよ。」

「えー、ひどいですね。」

「で、俺も困っちゃってさ、忘れてるのかなとも思ったんだけど、そんなはずないし、しつこく言ったんだよ。あの、ギタリストの蒔野聡史ですって。それでもあっちは、何言ってんだこいつ?って顔なんだよ。—で、俺も段々、腹立ってきてさ、」

「それはそうですよ。」

「あの番組で対談して、話が盛り上がったじゃないですかとか、そのあと、たまたま同じ時に会津若松にいて、飲みに行ったじゃないですか、とか、これでもかっていうくらい、色々挙げてったんだよ。そしたら、何て言ったと思う? 『人違いじゃないですか?』って。」

「なんかしたんですか、蒔野さん? たまたま機嫌が悪かったとか?」

「いや、それでさ、そんなこと言われて、俺も『え?』ってなるじゃない? で、よぉく見たんだよ。そしたら、—ホントに人違いだったんだよ。」

「はあ?」

「まったくの赤の他人でさ。そうやって改めて見てみると、全然、違う人なんだよ。なんで富岡さんに見えたのか。……」

 ぽかんとなっていた皆も、眉をハの字にして喋る彼の素っ頓狂な口調に、思わず噴き出した。

「なんか、もう、恥ずかしくてさ。穴があったら入りたいって、あのことだよ、まさに。その人だけじゃなくて、周りの人も見てたから。」

「で、どうしたんですか?」

「いや、こっちも引っ込みがつかなくなっちゃって、『もういいですよ、じゃあ!』って怒って。」

「怒る? 謝らなかったんですか?」

「そんな余裕はないよ。怒って席に戻って、あとはふて寝だよ。」

「寝たんですか!?」

「フリだよフリ。眠れないよ、そんなの。でも、恐くて目も開けられないからさ。東京までそのままずっと、ただ目を瞑ってたんだよ。っんと、もう、やることいっぱいあるのにさ。」

 そう言って嘆くと、みんなまた腹を抱えて笑った。蒔野は、話している最中から、洋子が聴いていて、笑っているかどうか、ちらちら気にしていた。何度かまた目が合った。彼女は、椅子の背もたれに仰け反るようにして、くちもとに軽く握った手を宛てがいながら、肩を揺すって笑っていた。そして、「おかしい。」と呟くと、中指で下睫の涙を拭った。蒔野は、自分が彼女に受け容れられたように感じて嬉しくなった。

 蒔野の隣で、話の間、関係者の料理をよそっていた三谷は、
「蒔野さん、喋らないと素敵なんですけどねぇ。とてもさっき、ステージで、あんなすごい演奏をしてた人とは思えないですよ。担当になったばかりの頃、わたし、ショックでしたもん。」

 と皿を回しながら言った。

「そんなもんだよ。富岡さんみたいにスカした人の方が珍しいよ。」

「いやだから、それ、別人ですから。」

 間の良いスタッフのツッコミで、またテーブルが沸いた。

 蒔野の向かいの洋子は、既に自分で手際よく野菜ばかりを取り皿に盛っていた。

「あ、ベジタリアンでした?」

「ううん。ただ時々、野菜中心の食事になるんです。その方が体調的に楽な時があって。—今日は、時間も時間だし。」

 蒔野は、ほぉ、という顔をした。「時々、野菜中心」というのは、ありそうでないことで、そういう食生活の人と会ったのは初めてだった。それは、彼女がどんなに自由に、自分の人生をアレンジしているのか、その一端を彼に垣間見させた。

「それに、わたし、もうじきイラクに行くんです。」

「イラク?」

「去年も一度、行ってるんです。名刺、さっきお渡ししそびれてましたね。」

 金色の金属製のケースから取り出された名刺を、蒔野は腕を伸ばして受け取った。

「どれくらいの期間なんですか?」

「六週間行って二週間休み。それを予定では二クールです。だから、四カ月かな。」

「治安はどうなんですか? この前、フセインの死刑判決のニュース、見ましたよ。」

「イラク侵攻後、今が一番悪いです。……でも、大丈夫です。現地にはスタッフが常駐してますし、セキュリティもしっかりしてますから。それより、あっちに行くと、なかなかおいしいお野菜を食べられなくて。だから、今、食べておきたいんです。」

「ああ、それで。—喰い溜めですか。」


 蒔野は神妙な面持ちで聴いていたが、最後は彼女の笑顔を受けて、笑って言った。


(つづく)

平野啓一郎・著 石井正信・画


noteの平野啓一郎さんのページでは、cakesより一週間早く『マチネの終わりに』を掲載!
その他にも、若手クリエーター9名による小説に関する作品発表や、ユーザーからの
投稿作品の募集を実施していきます!

コルク

この連載について

初回を読む
マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

corkagency 洋子と出会った蒔野は彼女が憧れの映画監督の娘と知る。打ち上げの夜、演奏時とはまた違った形で、周囲の人々を楽しませる蒔野。2人は以前から惹かれ合う運命だったかのように言葉を交わしはじめる… https://t.co/BRvrC2in2l http://t.co/6LWJqm0u9V 5年弱前 replyretweetfavorite

corkagency cakesにて『マチネの終わりに』が更新されました! 平野啓一郎 @hiranok | https://t.co/BRvrC2in2l 5年弱前 replyretweetfavorite