「二番目の日本人の妻の娘です。わたしが物心つく前に離婚してますから、父と一緒に生活した記憶はないんですけど。でも、今でも交流はあります。」
「そうなんですか!? いや、《幸福の硬貨》は、僕がギターを本当に好きになったきっかけの映画なんです。子供の頃から、何度繰り返し見たことか!……そうですか。お父様のことは、本当に尊敬してるんです。本当に!」
「ありがとうございます。父の作品について、そう言ってくださってること、知ってました。わたし実は、蒔野さんの演奏を聴くの、二回目なんです。パリ国際ギター・コンクールで優勝したあと、母と聴きに行きましたから。日本人なんだって!って。サル・プレイエル、でしたよね、直後のコンサート?」
「えっ、……本当ですか? 参ったな。いや、光栄ですけど、……ヘタだったからなぁ、まだ。」
「いえ。あんまり素晴らしくて、わたし、蒔野さんにとても嫉妬したんです、その時。父の映画のテーマ曲を、わたしより二つ年下の日本の高校生が、こんなに立派に演奏して、拍手喝采を浴びてるなんて! 許せないって。すごく不機嫌になりましたから。」
洋子は、そう言って、鼻梁にキュッと小皺を寄せて白い歯を見せた。子供みたいに笑うんだなと、蒔野は思った。
会場を出る時間が迫っていたが、二人の会話は尽きる気配がなかった。それは、
電話をかけに少し外していた三谷が戻って来ると、打ち上げ会場に移動するように促した。洋子はオメガの腕時計にちらと目を遣って、「もうこんな時間。すみませんでした、お疲れのところを。」と、それを潮に帰ろうとした。
蒔野は勢い、「良かったら、打ち上げに来られませんか? もう少しお話をしたいんですが。」と誘った。是永も、それを受けて、「行きましょうよ!」と彼女の腕を取った。
洋子は、躊躇うふうだったが、もう一度時計を見て、「じゃ少しだけ、お邪魔でなければ。」と同意した。タクシーに分乗して、ワンメーターほどの距離にある、馴染みのスペイン料理店に向かった。もう十一時近くだった。
*
間接照明の仄暗い店内は、予約したテーブルを除いて満席の賑わいだった。
フラメンコが流れていて、レジ周りの白い土壁には、来店者のサインが溢れている。洋子は、コートを脱ぎながら、丁度、今、ギターが聞こえているパコ・デ・ルシアのサインを見ていた。正面からはあまり感じなかったが、横顔には確かに父親のソリッチの面影があった。何かを見て、感じ、考えているその雰囲気のせいか。
洋子は、蒔野の視線に気がつくと、そのサインを指さして振り返った。タクシーには分かれて乗ったので、目が合ったのはそれが二度目だった。芸術家との交流にも馴れているふうで、コンサートの感想を充分に伝えた後は、別段、臆することもなく、自然に関係者の輪の中に居場所を見つけていた。蒔野は、自分の方こそむしろ、彼女に何か、憧れに似た感情を抱いているのを意識した。
『あのソリッチの娘なのか。……ちょっと近寄りがたい、知的な雰囲気の美人だけど、表情が案外、やさしいというのか、親しみやすいというのか、な。……』
八人でテーブルを囲んで、カバで乾杯した。料理が次々と運ばれてきて、居酒屋のように皆で皿を回しあった。
蒔野は、いつも通り饒舌だった。スタッフらが、丁度、写真家の大御所の富岡慎弥の話をしていたので、それに加わって、ツアー終盤の京都からの帰りの新幹線の話をした。
「いや、乗ったらさ、その富岡さんがいたんだよ、俺の一つ前の席に。で、あの人、気難しいからさ、あんまり話しかけたくなかったんだけど、なんか、目が合っちゃったし、無視するわけにもいかないから、一応、挨拶に行ったんだよね。どうも、ご無沙汰してます、蒔野ですって。そしたら、さ! 例の気取った調子で、チラッとこっちを見ただけで無視するんだよ。」
「えー、ひどいですね。」
「で、俺も困っちゃってさ、忘れてるのかなとも思ったんだけど、そんなはずないし、しつこく言ったんだよ。あの、ギタリストの蒔野聡史ですって。それでもあっちは、何言ってんだこいつ?って顔なんだよ。——で、俺も段々、腹立ってきてさ、」
「それはそうですよ。」
「あの番組で対談して、話が盛り上がったじゃないですかとか、そのあと、たまたま同じ時に会津若松にいて、飲みに行ったじゃないですか、とか、これでもかっていうくらい、色々挙げてったんだよ。そしたら、何て言ったと思う? 『人違いじゃないですか?』って。」
「なんかしたんですか、蒔野さん? たまたま機嫌が悪かったとか?」
「いや、それでさ、そんなこと言われて、俺も『え?』ってなるじゃない? で、よぉく見たんだよ。そしたら、——ホントに人違いだったんだよ。」
「はあ?」
「まったくの赤の他人でさ。そうやって改めて見てみると、全然、違う人なんだよ。なんで富岡さんに見えたのか。……」
ぽかんとなっていた皆も、眉をハの字にして喋る彼の素っ頓狂な口調に、思わず噴き出した。
「なんか、もう、恥ずかしくてさ。穴があったら入りたいって、あのことだよ、まさに。その人だけじゃなくて、周りの人も見てたから。」
「で、どうしたんですか?」
「いや、こっちも引っ込みがつかなくなっちゃって、『もういいですよ、じゃあ!』って怒って。」
「怒る? 謝らなかったんですか?」
「そんな余裕はないよ。怒って席に戻って、あとはふて寝だよ。」
「寝たんですか!?」
「フリだよフリ。眠れないよ、そんなの。でも、恐くて目も開けられないからさ。東京までそのままずっと、ただ目を瞑ってたんだよ。っんと、もう、やることいっぱいあるのにさ。」
そう言って嘆くと、みんなまた腹を抱えて笑った。蒔野は、話している最中から、洋子が聴いていて、笑っているかどうか、ちらちら気にしていた。何度かまた目が合った。彼女は、椅子の背もたれに仰け反るようにして、くちもとに軽く握った手を宛てがいながら、肩を揺すって笑っていた。そして、「おかしい。」と呟くと、中指で下睫の涙を拭った。蒔野は、自分が彼女に受け容れられたように感じて嬉しくなった。
蒔野の隣で、話の間、関係者の料理をよそっていた三谷は、
「蒔野さん、喋らないと素敵なんですけどねぇ。とてもさっき、ステージで、あんなすごい演奏をしてた人とは思えないですよ。担当になったばかりの頃、わたし、ショックでしたもん。」
と皿を回しながら言った。
「そんなもんだよ。富岡さんみたいにスカした人の方が珍しいよ。」
「いやだから、それ、別人ですから。」
間の良いスタッフのツッコミで、またテーブルが沸いた。
蒔野の向かいの洋子は、既に自分で手際よく野菜ばかりを取り皿に盛っていた。
「あ、ベジタリアンでした?」
「ううん。ただ時々、野菜中心の食事になるんです。その方が体調的に楽な時があって。——今日は、時間も時間だし。」
蒔野は、ほぉ、という顔をした。「時々、野菜中心」というのは、ありそうでないことで、そういう食生活の人と会ったのは初めてだった。それは、彼女がどんなに自由に、自分の人生をアレンジしているのか、その一端を彼に垣間見させた。
「それに、わたし、もうじきイラクに行くんです。」
「イラク?」
「去年も一度、行ってるんです。名刺、さっきお渡ししそびれてましたね。」
金色の金属製のケースから取り出された名刺を、蒔野は腕を伸ばして受け取った。
「どれくらいの期間なんですか?」
「六週間行って二週間休み。それを予定では二クールです。だから、四カ月かな。」
「治安はどうなんですか? この前、フセインの死刑判決のニュース、見ましたよ。」
「イラク侵攻後、今が一番悪いです。……でも、大丈夫です。現地にはスタッフが常駐してますし、セキュリティもしっかりしてますから。それより、あっちに行くと、なかなかおいしいお野菜を食べられなくて。だから、今、食べておきたいんです。」
「ああ、それで。——喰い溜めですか。」
蒔野は神妙な面持ちで聴いていたが、最後は彼女の笑顔を受けて、笑って言った。
(つづく)
平野啓一郎・著 石井正信・画
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