第一章 出会いの長い夜(2)

十八歳の時にパリ国際ギター・コンクールに優勝し、鳴り物入りのデビューを飾った蒔野聡史。「デビュー二十周年記念」として催されたコンサートは大盛況のうちに幕を閉じるが、その舞台裏では、トラブルの予兆を含んだトラブルが起きており……。

 三谷は、楽屋に入る前の蒔野から、ノックしないでほしいと、一言、言い渡されていた。その意味はわからなかったが、とにかくそれを忠実に守ったのだった。

 やがて、蒔野は、「あ、どうも、お待たせしました。」と自分から楽屋を出てきた。そして、

「いや、なんかもう、くたびれ果てちゃって。四十も目前となるとこうですかね。」と戯けて首を回してみせた。

 白い、よく見ると星柄の刺繍が入ったシャツに黒いジャケット、それに濃いモスグリーンの細身のカーゴパンツに着替えていた。顔は幾らかさっぱりしていて、髪も整えられている。笑顔だったが、誰の方を向いたものやらと、しばらくきょろきょろしていた。

 関係者は、彼の平気そうな表情に安堵したが、ふと目をやった楽屋のゆかに、750mリットルのペリエの瓶が一本、空になって転がっていたのを、皆がなぜか覚えていた。あとで誰からともなくその話になり、「そうそう! わたしもあれが妙に気になって。」と頷きあった。しかし、それが何を意味しているのかはわからなかった。多分、本人も言っていた通り、疲れていたのだろう。

 面会希望者の多くが、蒔野が楽屋に四十分も籠もっていた間に、諦めて帰ってしまっていた。彼は、ねばって待っていた幾人かと、頗る愛想のいい、丁寧な挨拶を交わした。列の最後には、レコード会社のジュピターの担当者である是永慶子が、連れ合いらしい女性と談笑しながら待っていた。

 蒔野は、順番が来る前から、彼女らの姿を、二度三度と見ていた。実は、舞台の上からも、二階の招待者席に座るその見知らぬ女性の存在には気がついていた。是永を探し当てた彼の視線は、そのまま引き寄せられるようにして脇に逸れ、しばらく留まった。その時にはよく見えなかった色白の小さな顔が興味をそそった。

 やや張った肩に、艶のある黒い髪が、足でも組んでいるかのように掛かっている。鼻筋の通った彫りの深い造りだが、眼窩は浅く、眉はゆったりとした稜線を描いている。二分ほど開き残したかのような大きな目は、少し眦が下がっていて、笑うと、いたずら好きの少年のような潰れ方をした。

 細く白い首には、黒と萌葱色のチェック地に、花柄がちりばめられたストールを巻いている。軽いダメージのデニムが、まっすぐに伸びた足によく似合っていた。

 蒔野は、終いにはやや不用意なほど長く、彼女を見つめていた。そして、いよいよ順番となり、近づいてきた時には、むしろ慌てて視線をジュピターの担当の是永に逃がした。

 是永は、彼に賞賛と労いの言葉を手短に伝え、傍らの女性を紹介した。

「こちら、小峰洋子さんです。RFP通信の記者さんです。」

 洋子は、笑顔で「おめでとうございます。」と握手をした。欧米人が、コンサートのあとに言うCongratulations!だとか、Félicitations!だとかを直訳したような響きがあった。日本的な甘い感じのない薄化粧で、名前は「洋子」だが、顔立ちからすると混血かもしれない。

「アンコールのブラームス、とても好きな曲なんです。編曲、素晴らしかったです。」

 蒔野は、目を見開いて喜びを露わにした。アランフェスではなく、その曲を挙げたのは彼女が初めてで、しかもそれは、彼自身が今晩唯一—それも辛うじて—満足できた演奏だった。

「ありがとうございます。なかなか、一人で弾くのは骨が折れる曲ですけど。」

「本当に、うっとりしました。」と、彼女はあまり大袈裟な笑顔を作らずに胸に手を当てた。低く響く声—それも、声質というより、発声の仕方のせいで。「……どこか、遠い場所に連れて行ってくれるような、そう促されて、そっと手を引かれているような。」

 蒔野は如才なく、ダンスにでも誘うように腕を差し伸べると、

「実は、舞台の上からお誘いしてたんです。」

 と笑った。洋子は、彼のそうした、ほとんど軽薄にさえ見える態度を、意外に感じた様子だった。

「気をつけてくださいよー、洋子さん。蒔野さん、ゲイじゃなくて、モテるのにこの歳まで独身って人ですから。推して知るべしです。」と是永は言った。

「また、人聞きの悪いことを。……」

「是永さん、そんなこと思ってたんですか?」
「みんな言ってますよ! でも、残念でしたー。洋子さん、フィアンセがいますから。大学時代の同級生で、蒔野さんとは全然タイプの違う経済学者さん。アメリカ人。」

 蒔野は、うっかり美術品に触れようとして注意でもされたように手を引っ込め、

「それは残念。しかし、その最後の『アメリカ人』っていうのは、何なんですか?」

 と言いながら、彼女の左手に目を遣った。薬指にプラチナのリングが覗いていた。

 洋子は、その屈託のないやりとりの中で、自分を野暮だと感じたらしく、

「グールドのピアノがずっと好きでしたけど、これからは、蒔野さんのギターを聴くことにします。」と、また表情を和らげた。

「あれは、名盤ですから。僕も大好きです。聴いちゃうと、あっ、やっぱりピアノの方がいいかなと思いますよ、きっと。はは。あっちは、しばらく聴かないでください。—冗談です。僕とは比較にならない大天才ですけど、一つだけ共通点もあるんですよ。」

「何でしょう? 寒がり?」

「あー、それもちょっとあるかな。—コンサートが嫌いなんですよ、僕は。」

 洋子は、なぜかそれを軽く受け流すように、

「それじゃあ、今日は、立派に“野蛮な儀式”に耐えてみせたんですね。」と、彼の目を無言で数秒間見つめた。

 蒔野は、その問いかけるような、それでいて、既に彼を十分に理解しているようなふしぎな眼差しに、それまでの社交的な笑顔を、つい落っことしてしまった。自分が反発を覚えているのか、喜んでいるのかもわからないまま、また微笑みなおそうとした。

 ギターケースを抱えて傍らで聞いていた三谷は、その「野蛮な儀式」というグールドの言葉の引用を、洋子自身の表現と誤解して眉を顰めた。是永は、蒔野の表情から、彼女が彼の不興を買ったのではないかと、心配そうな表情をした。そして、先ほど途中になっていた紹介の続きをした。

「洋子さんのお父様、蒔野さんの大好きな《幸福の硬貨》の監督さんなんです。」

「え、あの映画の? イェルコ・ソリッチ……監督?」

 蒔野は、驚いて洋子に顔を向けた。


(つづく)

平野啓一郎・著 石井正信・画


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コメント

corkagency 天才クラシックギタリストの蒔野聡史。「デビュー二十周年記念」として催されたコンサートは大盛況のうちに幕を閉じるが、その舞台裏では、トラブルの予兆を含んだトラブルが起きており……。 5年弱前 replyretweetfavorite

Kanaerror Cakesで平野さんの連載始まってた。紙の本で一気に読みたい派の私だけど、チラ見しちゃったらからもうダメね(。>д<)気になっちゃうもん。 > 5年弱前 replyretweetfavorite