第一章 出会いの長い夜(1)

芥川賞作家・平野啓一郎さんの3年ぶりの長篇となる小説『マチネの終わりに』がcakesでスタート! 「恋愛」をメインテーマとし、その他に生と死、父と娘、40代の困難など、大小様々なテーマが折り重なって描かれる本作。天分豊かなクラシック・ギタリスト蒔野聡史と、海外の通信社に勤務する小峰洋子との出会いから物語は始まります。

 ここにあるのは、蒔野まきの聡史と小峰洋子という二人の人間の物語である。

 彼らにはそれぞれにモデルがいるが、差し障りがあるので、名前をはじめとして組織名や出来事の日付など、設定は変更してある。

 もし事実に忠実であるなら、幾つかの場面では、私自身も登場しなければならなかった。しかし、そういう人間は、この小説の中ではいなかったことになっている。

 彼らの生を暴露することが目的ではない。物語があまねく事実でないことが、読者の興を殺ぐという可能性はあるのだろう。しかし、人間には、虚構をまとわせることでしか書けない秘密があり、虚構のお陰で書かずに済ませられる些末事もある。私は現実の二人を守りつつ、その感情生活については、むしろ架空の人物として、憚りなく筆を進めたかった。

 出逢った当時、彼らは、「人生の道半ばで正道を踏み外し」つつあった。つまり、四十歳という、一種、独特の繊細な不安の年齢に差し掛かっていた。彼らの明るく喧噪に満ちた日常は、続くと想像しても、続かないと想像しても、いずれにせよ物憂かった。彼らもまた、半ばそれと知らず「暗い森の中」へと歩んでいったが、『神曲』のダンテは、それを、こう説明している。「どうしてそこに入り込んだのかうまく言えない、当時私はただもう夢中だったから、それで正道を捨てたのだ。」と。実際、彼らにとっても、そうとしか言いようがなかったろう。

 蒔野聡史と小峰洋子とが、互いに対して抱いていた感情は、何と呼ぶべきだろうか。例えば、友情であったのか、それとも愛だったのか。二人は、苦しみとも癒やしともつかない、時には憎しみのようでさえあった強い信頼を保ち続けたが、いずれにせよ、それをただ、肉体にのみ尋ねてみても、答えは返ってこないだろう。

 彼らの関係について知っているのは、私の他に一人だけいる。それが誰であるかは、すぐにわかるだろう。しかし彼女は、二人がただ愛し合っていたことだけを信じていて、実際に何があったのかは知らない。

 彼女は、それについては一切口外しない。出来ればなかったことにしたいと願っている。彼女は幾つかの点で誤解している。私が書くことで驚き、反発し、一旦は救いを感じるだろう。しかし結局は、より深く傷つくことになるのかもしれない。

 私自身が最初に知っていたのは蒔野聡史の方で、後には小峰洋子とも連絡を取るようになった。それで、この二人が惹かれ合った理由がよくわかった。

 彼らの生の軌跡には、華やかさと寂寥とが交互に立ち現れる。だからこそ、その魂の呼応には、今時珍しいような—それでいて、今より他の時には決して見出し得なかったような美しさがある。

 私は二人に憧れを感じていた。一体、他人の恋愛ほど退屈なものはないが、彼らの場合はそうではなかった。なぜだろうか? 仕事の合間に二人について考えることは、ここ数年、幾つかの大きな幻滅を経験していた私にとって、束の間の現実逃避となった。

 最初から、私には不可能な人生だが、自分ならどうしただろうかとよく考えた。

 彼らの生には色々と謎も多く、最後までどうしても理解できなかった点もある。私から見てさえ、二人はいかにも遠い存在なので、読者は、直接的な共感をあまり性急に求めすぎると、肩透かしをらうかもしれない。

 そのうちに、私はどうしても、彼らについて書きたいと思うようになった。しかし、実際に筆を執ったのは、書くべきだと感じてからである。

 最後に、これは余計な断りだろうが、この序文は、すべてを書き終え、あとからここに添えられたものである。

 序文とは固より、そういう性質のものだろうが、私はどうしても、そう一言、言っておかずにはいられなかった。

第一章 出会いの長い夜

 二〇〇六年、クラシック・ギタリストの蒔野聡史は三十八歳になっていた。

 この年、彼は「デビュー二十周年記念」として、国内で三十五回、海外で五十一回と、例年にない数のコンサートをこなし、盛況のうちにツアーの最終公演日を迎えた。丁度、会場のサントリーホール周辺の紅葉が見頃を迎えた時期で、シャンパン色の光にライトアップされた木々が、夕間暮れから鮮やかだった。風は冷たく、時折木の葉を舞い上げて強く吹いたが、そのせいでむしろ、チケットを握り締めた人々は、コートの下の胸の昂ぶりに熱を感じた。

 蒔野のこの夜の演奏は、後々まで、ちょっと語り草になるほどの出来映えだった。

 メインは新日本フィルとの共演によるアランフェス協奏曲で、三度に及んだアンコールでは、ラウロの《セイス・ポル・デレーチョ》、蒔野自身が編曲したブラームスの間奏曲(インテルメッツォ)第二番イ長調、更には武満徹の編曲によるビートルズの《イエスタデイ》まで披露した。楽器は、古楽器派の彼には珍しく、その音の大きさと安定感とで、当時、世界を席巻しつつあったオーストラリア製のグレッグ・スモールマンが使用された。

 まだ高校在学中の十八歳の時にパリ国際ギター・コンクールに優勝し、鳴り物入りのデビューを飾って以来、蒔野の演奏は、常に危なげなく安定していた。二十年という年月を経てみてわかったことは、彼は単に才能に恵まれただけでなく、数ある才能の中でも、特に良いものに当たったのだった。

 蒔野の演奏を聴いていると、しばしば人は、息をすることを忘れてしまった。そのあまりの完璧主義に、「聞き流すことができない」とよく評されたが、これは必ずしも褒め言葉というばかりではなく、幾らかは「疲れる」という意味の苦笑も含まれていた。

 ジャンルを問わず、何を弾いても上手すぎるせいで、才能を弄んでいるように取られる一方、思索的とも評されるのは、チェス盤でも眺めているかのような演奏中の表情も手伝っていた。

 楽曲の理解は緻密で、透徹していて、細部は全体を活気づけ、また全体が細部に於いて生き生きと精彩を放った。

 通人ほど退屈するアランフェス協奏曲の第三楽章でさえ、きびきびとした音符の筋肉の陰翳まで見えそうな躍動感で、誰が弾いてもなかなか立派に聞こえないこの難物も、こんなに良い曲だったのかと、これ見よがしに苦笑して首を傾げる批評家もいた。

 要するに、その説得力を前にしては、好き嫌いを超えて、もうケチのつけようがなかった。

 アンコールでは果たして、待ち構えていたかのように総立ちとなった。

 皆がなんとかして自分の拍手の音を届かせようと、少し背を仰け反らせながら、できるだけ腕を前に突き出して手を叩いた。感動の大きさが、拍手の打点の高さと比例するというのは、この日の会場のひとつの発見だった。

 蒔野は、カーテンコールの度に、少しずつニュアンスの違う洗練されたお辞儀をした。満足感を表現し、感動していることを伝え、少しくたびれていることも隠さなかった。その照れ笑いには、先ほどまでの神妙な面持ちとは違う、彼が折々、テレビのトーク番組などで見せる爽快さがあった。

 終演後、ロビーは騒然とし、その相乗効果で、何か大変な名演を聴いた気がしていた人々は、やっぱりそうだったのかと自信を持った。連れ合いのいない者は、早速その興奮をネットに書き込み始め、立ち止まったり、人にぶつかったりして方々で迷惑がられた。

 後にCD化され、レコード・アカデミー賞を受賞することとなるこの日の録音は、クラシックの—それもギターの—アルバムとしては、かなりの売れゆきとなった。

 専門誌や新聞だけでなく、テレビの情報番組でも一度取り上げられたので、音楽に興味のない者たちも、蒔野というのは、やっぱりそんなに凄いのかとぼんやりと再認識した。

 この日のコンサートを聴いたことの価値は、後には更に高まった。

 というのも、蒔野の音楽活動は、この後唐突に、長い沈黙に入ることになるからである。

 振り返ってみれば、あれが予兆だったのではという出来事が、実は一つあった。

 終演後は、いつも以上に面会者が舞台裏に殺到したが、蒔野は彼らを待たせたまま、四十分近くも楽屋に籠もって出て来なかった。

 中で倒れているんじゃないかと、途中からさすがに関係者が心配し始めたが、マネージャーの三谷早苗は、頑なにドアを開けることを認めなかった。

 一年ほど前から蒔野の担当をしている彼女は、つい最近、「あーあ、」と言いながら三十歳になったところだった。少し頬の赤い丸顔で、分け目をつけた栗色のボブに黒縁眼鏡をかけている。うっかりすると、子供扱いしてしまいそうな雰囲気だが、その実、勝ち気で通っていて、特に相手が年配の男性の時には、かわいがられるか、不興を買うか、その評判がはっきりと分かれた。


(つづく)

平野啓一郎・著 石井正信・画


noteの平野啓一郎さんのページでは、cakesより一週間早く『マチネの終わりに』を掲載!
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コルク

この連載について

マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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コメント

kikuchiy1107 こんな夜にピッタリの序文だけでもhttps://t.co/mzAq2lvUDI 1年以上前 replyretweetfavorite

corkagency 蒔野のストレートな告白に、洋子はどう答えるのか。物語は、第五章 洋子の決断へと進む。蒔野の音楽家としての活動にも暗雲が立ち込め...。https://t.co/MT2QwUXfnt 平野啓一郎『マチネの終わりに』 cakes 第一回 https://t.co/fIyjx2AWoi 約2年前 replyretweetfavorite

kentaroraro  そうそう、最近、平野啓一郎さんが新聞連載してる小説の主人公がクラシックギタリストなのです。note,cakesでも閲覧可能。つづきが楽しみ! 2年以上前 replyretweetfavorite

cork_inter The link on the previous tweet goes to the interview w/ Keiichiro Hirano. To read the novel: https://t.co/Pu6hgwt2k2 Sorry for the mistake. 2年以上前 replyretweetfavorite