日本建築論

ポストモダンが再評価したもの・批判したもの:第3章(2) 

20世紀以降の日本建築には、「日本という国への意識」が脈々と流れています。だから、日本の建築を見れば、「日本とは何か」「日本的なるものとは何か」という問いに対峙することになる。 本連載は、伊勢神宮、国会議事堂、桂離宮、日光東照宮など、シンボリックな有名建築をとりあげ、それらを巡って重ねられてきた議論を追います。日本のナショナリズムとモダニズムの相克が、いま蘇る!

○ファシズムと連携した建築様式?

 帝冠様式をめぐる近代建築史の事件としては、1931年の東京帝室博物館(現東京国立博物館)のコンペが有名である。その募集規定には、「様式は内容と調和を保つ必要あるを以て日本趣味を基調とする東洋式とすること」と記されていた。日本と東洋の古美術を所蔵する建物のプログラムを、様式によって表現するためである。造形は日本ならではのものを求めているとはいえ、このコンペは19世紀のヨーロッパの歴史主義において、建物の用途やTPOにあわせて、それにふさわしい様式を選択する態度の延長線上にあるものだろう。

 しかし、日本インターナショナル建築会は日本趣味の強要に反発し、直ちに応募拒否の声明文をだす。すなわち、「偏狭なる個人的趣味を意匠の基準」として審査を行うことに反対した。また近代建築家の前川國男と蔵田周忠は、あえて落選を覚悟して、モダニズムのデザインを提出した。結果、伊東忠太や内田祥三を含む保守的な審査員により、瓦屋根をのせた渡辺仁の案が一等に選ばれる。

 だが、かえって前川らはモダニズムの信念を貫いたとして、英雄視されることになった。帝冠様式は「日本趣味」をわかりやすく表現する方法であり、それゆえ当時のコンペの応募案にしばしば登場する。

 戦後、帝冠様式は国粋主義のイデオロギーを体現した建築として批判された。機能主義を標榜し、様式建築を否定する近代建築の立場からも、帝冠様式は唾棄すべき存在とみなされるだろう。こうした視点から、浜口隆一は戦時中の記念建築を断罪し、モダニズムを「ヒューマニズムの建築」と位置づけた。

 だが、近代建築だからといって、単純に反ファシズムと言えるかというと微妙だろう。前川も戦時下の在盤谷日本文化会館コンペで和風の屋根を提案したり、忠霊塔のコンペに参加したりしており、きれいに二分できるわけではない。そもそも戦争は、近代建築以上に徹底的な機能主義を遂行し、無装飾の箱を追求する。なるほど、ドイツではナチスが新古典主義を推奨したが、対立国のソ連もメガロマニアックな古典主義を推進した。一方、ドイツと同盟を結んだイタリアのムッソリーニのもとでは、ジュゼッペ・テラーニが良質の近代建築を設計している。ともすれば、ピーター・アイゼンマンによるテラーニのフォルマリズム的な分析は政治性を隠蔽してしまうが、逆に建築史家のダイアン・ジラードは合理主義者とファシズムの連携を問題にした。

カサ・デル・ファッショ〔設計:ジュゼッペ・テラーニ、1932-1937年〕

 飯島洋一は『王の身体都市』(青土社、1996年)において、帝冠様式を「危機の時代にあらわれた「憑依」の建築」と解釈している。「西欧的な様式に日本の伝統的な様式が取り憑く」からだ。彼によれば、天皇霊に見られるように、天皇そのものが憑依的存在であり、天皇の代替りが起きた昭和初年に最初の帝冠様式である神奈川県庁舎が登場したのは偶然ではない。なるほど、精神分析的な読解は興味深いが、もともと最初の帝冠様式を批判した伊東忠太を帝冠様式と同じ枠組でまとめ、両者を折衷主義とみなしてしまうのは、建築家の言説を無視している。また折衷主義のデザインそのものを深く分析し、そのなかの方法の差異を細かく区別していく必要があるのではないか。

 実証的な研究では、井上章一の『戦時下日本の建築家』(朝日新聞社、1995年)がすぐれている。彼の詳細な言説分析によれば、日本趣味は国家の意向と関係なく、建築家の閉鎖的な文脈から生みだされたものであり、ファッショ的とされるのは曲解だという。ドイツと違い、戦犯となった建築家はいないし、当時の日本では国家権力による瓦屋根の強要はなく、あくまでも伊東らの通俗性においてのみ、ファッショとつながる契機がある。

 むしろ、戦後にモダニズムを賛美するために、敵としてファシズム=帝冠様式のイメージが捏造された。この図式は同時に、モダニズムが日本ファシズムと関わった過去を隠蔽してしまう。モダニズムはファシズムと徹底的に戦ったことはない。

 井上は、建築の自律的な変化の過程において帝冠様式を位置づける。つまり、古典主義とアカデミズムの規範が解体していく様式の空白期だからこそ、日本趣味が登場しえたのではないか、と。実際、当時は様式が混在しており、モダニズムが勝利する前夜だった。


○屋根と宗教建築

 モダニズムは装飾をはぎとっただけでなく、屋根という建築の頭を切断した。すなわち、傾斜していた建築のシルエットが、水平線に変わる。モダニズム建築が「四角い箱」と言われるゆえんだ。屋根は雨や日照などの環境、固有の素材などにより、地域性があらわれやすい部位である。つまり、建築の屋根をなくすことは、場所性や伝統性を奪うことであり、それゆえ、インターナショナルなデザインになるだろう。イギリスであろうと、日本であろうと、共通した美意識の建築をつくることができる。

 こうした潮流を受けて、不燃化の推進とともに、寺院建築もコンクリート化しつつ、フラットな陸屋根のモダニズムが登場するようになった。もっとも、その反動が起きると、伝統的な屋根に回帰していく。

 たとえば新宗教の建築は、伝統的な屋根の造形に表現が集中する。例えば、世界真光文明教団の本殿(1987)や崇教真光の神殿(1984)、霊友会の釈迦殿(1975)は、和風の屋根と構造表現主義のダイナミズムを融合させた。新宗教の教団も、大衆性や伝統性、あるいは歴史的な連続性を意識するからだろう。

 天理教のおやさとやかた計画では、千鳥破風が並ぶ瓦屋根とピロティをもつ建物を3.5kmにわたって連続させ、世界の中心とされる聖地を囲む予定になっている。この屋根のモデルは、内田祥三が戦前に設計した天理中学校(1937)に求められるが、これは内田の東方文化学院東京研究所(1933)のようなものを望んだ施主の意向に応えたものだった(拙著『新編 新宗教と巨大建築』ちくま学芸文庫、2007年)。

天理教・おやさとやかた(部分)

○ポストモダンと屋根の再評価

 屋根の再評価を試みたのが、近代建築の画一性を批判する、1960年代以降のポストモダンだった。

 例えば、その理論的な支柱の一人となったロバート・ヴェンチューリは、シンボリズムの復権を掲げ、代表作の母の家(1963)では、書き割りのような大きな屋根をのせている。また家型のフレームだけで住居を再現したフランクリンコート(1976)のほか、彼は慣習的な記号として屋根を積極的に使うプロジェクトを数多く手がけた。

'Mother's House'表紙の「母の家」〔設計:ロバート・ヴェンチューリ、1963年〕

 こうしたアメリカのポストモダン建築論を受容しながら、日本で積極的に展開したのが、石井和紘である。磯崎新のつくばセンタービル(1983)について触れ、イタリアのミケランジェロやフランスのルドゥーなど様々な過去のデザインを折衷しながら日本を外している無国籍さこそが、日本の国家様式としてふさわしいという世間の意見には批判的な態度をとった。そして日本のことをやるとキッチュになるという敗戦の意識は終わったという。石井は、「帝冠様式は一建築様式であり、その建築の組み立て自身が戦争を起したのではない」と述べて、帝冠様式を戦犯建築から救済している(『数寄屋の思考』鹿島出版会、1985年)。

 石井は、ポストモダンの時代に日本的なものにとりくんだ。その際、まず伊東忠太の再評価を試みた。今でこそ、伊東は十分に歴史的な位置づけがなされているが、モダニズムが主流になったことに加え、靖国神社や朝鮮神宮など、イデオロギー性が強い建築の設計に関わった結果、戦後はしばらく語られなくなっていた。

 ゆえに、日本におけるポストモダンの時代に、伝統的な造形や装飾的な細部など、脱政治的な文脈から注目されたのもうなずけよう。彼の意匠の楽しさを全面にだした『建築巨人 伊東忠太』(読売新聞社編、読売新聞社、1993年)は、そうした一冊である。帝冠様式もポストモダンとして再読されるだろう。

 石井は『日本建築の再生』(中央公論新書、1985年)において、伊東には記念碑的な建築が多いこと、インド風や中国風などアジア的な造形を含んでいること、鉄筋コンクリート造によって伝統の表現を探求したことに注目している。そして丹下健三と比較した。

築地本願寺〔設計:伊藤忠太、1934年〕

 彼によれば、直接的に過去を模倣する伊東に対して、丹下の方法は「過去をそのまま再現するのではなく、彷彿させる方法なのだ」。また「伊東忠太がアジアとの関係で日本を確立しようとしたとすれば、丹下健三はアメリカとの関係で日本を確立しようとした」という。丹下は、アメリカ式の民主主義をとりこみ、群衆の建築をつくりあげたからだ。

 興味深いのは、コピーに対する石井の指摘である。伊東がアジアや日本の様式をコンクリートでコピーしたことをモダニズムは責められるのか、というものだ。すなわち、鉄やコンクリートの新しい材料で新しい建築を打ち立てた最初のモダニズムは偉大だが、後からそれを踏襲している人は、「多かれ少なかれその近代建築のコピー」である。ゆえに、ひとつの様式のコピーしかしないよりも、伊東のように多くのコピーをした方が正直ではないかという。ヴェンチューリはモダニズムこそが機能主義を無理に造形として表現するフェイクに陥っていると揶揄したが、石井も近代建築に痛烈な批判を浴びせている。

 石井は、帝冠様式と丹下健三のデザインを以下のように整理している(『数寄屋の思考』)。帝冠様式は「暗い」のだが、「寺の圧倒的な屋根のミニチュア版」であり、「寺の威光を、日常的な建築に当てはめることが無理なのではないか」という。一方、丹下は「この重苦しさを払拭した人」であり、「異種のものをコラージュせずに、一体にするところまで融け合わせ、軽快さを与えた」こと、また「寺を取らずに神社を取った」ことにより、「オリジナルな日本の清らかなパワーとしての神社」につながった。これらにを踏まえたうえで、石井は「大寺院や、大神社よりも数寄屋のほうが気が楽だ」と述べている。この言いまわしも、〜すべきと宣言せず、〜の方が好きだ語る、ヴェンチューリに通じるものだろう。


○石井和紘のポストモダン

 こうした見解を踏まえて、石井の代表作、直島町役場(1983)はつくられた。様々な屋根が複雑に組み合わさりながら、非対称性のバランスを生みだす数寄屋造の飛雲閣を参照したデザインである。ひとつのタイプに固執せず、多様性を志向する態度もポストモダン的だろう。したがって、彼は神社に関しても、伊東や丹下が絶対視し、デザインの着想源とした「伊勢神宮を精神的シンボルとすることにまだまだためらいを感じている」と述べている(『日本建築の再生』)。

 直島町役場〔設計:石井和紘、1983年〕

 起源が古代に遡る伊勢は、唯一神明造と呼ばれ、平入で、ひとつの切妻屋根をもち、特殊性を強調する。だが、中世以降の神社建築の歴史を振り返ると、吉備津神社や宇太水分神社など、屋根の造形は多様化し、さらに複数化していく。したがって、石井はこうした集合としての屋根にシンパシーを寄せ、自作でも試みた。

 石井は、屋根にこだわった作品を幾つか設計している。54の屋根(1979)は、タイトル通り、54の白い家型のフレームが田園風景の中に並ぶ。フレームの使い方は、ヴェンチューリのフランクリンコートも想起させる。石井は、ペアフレーム(1978)や岡山の農家(1980)の住宅、高原ビル(1981)でも、記号としての家型のコンクリート・フレームを使う。またジャイロ・ルーフ(1987)は天壇の屋根を偏心させながら回転させる形態操作を伴い、ゲイブルビル(1980)はオランダ風の屋根をモチーフとし、○□△ハウス(1987)は円柱、円錐、直方体を屋上に並べる。船橋のショッピングセンターのサンリオ・ファンタージェン(1988)は、ドイツのロマンティック街道の街並みのイメージをテーマパーク的に再現し、書き割りになったハーフティンバーの家屋が集合している。

 かつてモダニズムが切り捨てた屋根は、ポストモダンの時代に復活した。だが、それは雨水の処理といった機能的な要請ではなく、イデオロギー的な装置でもなく、記号的な要素になっている。


※次回掲載は4月3日です。


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日本建築論

五十嵐太郎

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市...もっと読む

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saz_go 「例えば、世界真光文明教団の本殿(1987)や崇教真光の神殿(1984)、霊友会の釈迦殿(1975)は、和風の屋根と構造表現主義のダイナミズムを融合させた。」 https://t.co/9MxzrTBN76 5年弱前 replyretweetfavorite