第8回】投了のタイミングをめぐって

プロ棋士と互角以上の戦いを繰り広げるまでに進化した将棋ソフト。不可能を可能にしてきた開発者たちの発想と苦悩、そして迎え撃つプロ棋士の矜持と戦略。天才たちの素顔と、互いのプライドを賭けた戦いの軌跡。今日までのコンピュータ将棋に関する最前線を追った『ドキュメント コンピュータ将棋』が3月25日発売予定です。本連載では、本書から特に電王戦FINAL出場者たちの素顔や想いの部分を抜粋して紹介していきます。

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 敗勢の側がどのタイミングで投了を告げるべきかについては、二つの考え方がある。プロかアマか。棋譜が残るかどうか。時間設定は秒読みか切れ負けか、などで事情は変わってくるので、ここでは棋士の公式戦というケースのみを想定して考えてみたい。

 一つは、初代宗桂名人以来の伝統で、勝ち目がないと思った時点で投げるべき、という姿勢である。
 もう一つは、投了すれば負けで終わり、それまでなのだから、負けとわかっていても、頭に金を打たれて詰まされるか、駒を全部取られるまでは投げない、という姿勢である。

 どちらが正しいのか、という答えはない。程度の問題でもある。

 電王戦に出場する棋士では、永瀬拓矢六段は、自身の投了のタイミングは2手ぐらい遅いと思っている。それでも、最後の最後まで指すことはない。

「(望みのない)ジリ貧は指さないようにしています。隕石が降ってくるのを期待してもしょうがないので」

 最近ではNHK杯における2局が、投了の時期をめぐる対照的なケースとなった。

 1局目は金井恒太五段―阿部光瑠四段戦。阿部は第2回電王戦に出場し、習甦に快勝した棋士として知られる。最近では新人王戦でも優勝するなど、活躍を続けている。

 金井―阿部戦は最初、阿部が優勢だったのだが、そこから逆転し、逆に阿部が必敗となる。望みがないと思われる局面から、阿部は指しつづける。入玉を果たしてみたものの、駒が足りない。1点や2点足りないのならば、指しつづけているうちに何か起こるかもしれないが、数えてみれば10点ほど足りない。ほぼ絶望的な状況の中で、阿部は延々と指し続けた。将棋の平均手数は110手ほどだが、この一局は、終わってみれば223手だった。

 もう1局は、年明けすぐに放映されたNHK杯谷川浩司九段―金井恒太五段戦。金井優勢だが、まだまだこれからだろうという終盤、谷川は勝ちがないと見て、さっと駒を投じた。解説を務めていた森下は驚いた。
「あそこで投了するっていうのは、谷川さんしかできない芸ですよね。あの局面で投了するプロはほとんどいないと思います。私ならば、ちょっと駒が足りないと思いながらも、なんとかあわよくば持将棋にと、もう五十手はやっています」

 どちらのケースの投了に対する姿勢も、賛同する人もいれば、そうではない、という人もいるだろう。

 棋士を目指す奨励会員にとっては、一局一局の勝負の意味は重い。そうした状況では、内容などは関係ない、ともかくも勝てばよい、という考えが正義となりもする。投げ切れず、無意味とも思われる粘りをする、ということはよくある。

<「もう一手逃げれば、一手詰めを逃してくれたかも知れません。心臓発作を起こすことだってある」(という奨励会員の発言を聞きとがめ)「なにを言うんだ」。桐谷が怒った。「これからの将棋界を背負う若者がそんな考え方でどうするんだ。いい手を指して勝とうとしなければだめじゃないか」>(河口俊彦『新・対局日誌』第5集、河出書房新社)

 投げなければ相手が心臓発作を起こすかもしれない、というのはしばしば用いられる喩えである。勝ちたいという心情は理解できるが、それだけでは困る、というのが棋士が後進に向ける、共通した心理である。

 森下卓九段も一度、研究会において、必敗の局面で、望みのない粘り方をしている奨励会員を注意したことがあった。

「粘っているのと、指しているだけの区別はつけなければいけない」
 と。逆転の希望を含んでの意味のある粘りと、投げきれずにただ指しているだけ、という状況の線引きは難しい。ただし棋士を目指すのであれば、その区別がつくようにならなければならない、ということだ。

「駒を動かしているだけで、『相手が倒れたら勝ちだ』、『反則をしたら勝ちだ』、そういうのは将棋ではないです。プロは棋譜が残りますから」
 これは昔ながらの棋士の美意識であろう。

 一方で、河口俊彦による、以下のような見方もある。

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ドキュメント コンピュータ将棋

松本博文

プロ棋士と互角以上の戦いを繰り広げるまでに進化した将棋ソフト。不可能を可能にしてきた開発者たちの発想と苦悩、そして迎え撃つプロ棋士の矜持と戦略。天才たちの素顔と、互いのプライドを賭けた戦いの軌跡。今日までのコンピュータ将棋に関する最前...もっと読む

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コメント

ka_shinygift2 https://t.co/l9G5NqMKlm 7日前 replyretweetfavorite

boreford >「もう一手逃げれば、一手詰めを逃してくれたかも知れません。心臓発作を起こすことだってある」(という奨励会員の発言を聞きとがめ)「なにを言うんだ」。桐谷が怒った。 約3年前 replyretweetfavorite