思い出トランプ(向田邦子)前編

突然の死去から今年で31年。今なお、数多くのファンの心を惹きつけてやまない向田邦子。今回finalventさんが取り上げるのは、まさに「新しい『古典』」にふさわしい向田邦子の短篇集『思い出トランプ』。その小説の奥に描かれていたものを、全三回に分けて読み解きます。ぜひご一読ください。

21世紀に再生した向田邦子

 脚本家でありエッセイスト、また小説家でもある向田邦子が不慮の飛行機事故で亡くなったのは1981年。それから30年以上の年月がたつが、彼女の作品は多くの人を魅了してやまない。見事に描かれた昭和という時代への懐かしさもある。当時20代だった私ですら50代を越える年齢になり、以前には気がつかなかった大人の苦みをその作品の中に深く読み込めるようになったせいもある。

 加えて、こう言うのはためらうのだが、51歳で死んだ向田邦子が21世紀になって突然20代の若い女性として生き返ったような衝撃感もある。2001年に公開された彼女の若い日の、壮絶な恋愛と数多くの写真に私は打ちのめされた。現在55歳にもなる私の、その母親の世代ともいえる向田邦子という女性が、20代前半の相貌で胸に迫ってきた。恋にも似た衝迫である。エヴァンゲリオンの碇ユイの一部が綾波レイによみがえったかのように。

 その不可思議な再生から、向田邦子の作品が昭和という時代を超えて21世紀に強い光を放つ。光源は彼女がその死の前年に直木賞を受賞した短編集『思い出トランプ』に集約される。なぜか。

思い出トランプ (新潮文庫)
思い出トランプ (新潮文庫)

誤読された『父の詫び状』

 まず向田邦子という人を振り返ってみよう。なにより昭和の時代を代表する脚本家である。昭和後期のお茶の間を圧倒した娯楽的なテレビドラマの脚本家として不動の名声を得た。1960代までに生まれた人なら、彼女の手になるホームドラマ『時間ですよ』や『寺内貫太郎一家』を見たことがあるはずだ。1970年代の終わりには女の本性を描いたシリアスドラマ『阿修羅のごとく』も有名になり、2003年に森田芳光監督で映画化された。翌年には舞台化もされ、今も舞台劇の定番である。日本に女優がいる限り、女優の性を暴くこの劇が廃ることはないだろう。

 向田邦子は脚本家としてそのまま名声を維持することもできた。だが、文筆の世界ににじみ出た。きっかけは、1978年出版の『父の詫び状』(文春文庫)である。

父の詫び状 <新装版> (文春文庫)
父の詫び状 <新装版> (文春文庫)

 日本語で書かれた名随筆5点を厳選すれば間違いなく含まれる。絶賛され、ベストセラーにもなった。なかでも東京大空襲を独自のユーモアで体験者の内側から描いた「ごはん」は、日本人なら誰もが共有する歴史そのものになった。『父の詫び状』こそ彼女の代表作と見る識者も多い。読み継がれ、1986年にはそこからテレビドラマも作られた。収録されていないが、同趣向の短い挿話である「字のないはがき」 (『眠る盃』収録)は中学校の教科書にも載り、若い世代の日本国民の多くが読んでいる。

 しかしこの随筆は微妙に誤読されているという印象を私はもっている。随筆とはいえ、文学において何が正しい読み方で、何が間違った読み方だと断じることはできない。だが多くの読者は『父の詫び状』を、その表題のせいもあるが、昭和一桁生まれの女性が明治生まれの父という存在を偲んだ随想として読んだ。昭和後期のこの随筆で、昭和初期の世相や明治生まれの父母や祖父を懐かしく思い出した人も少なくない。昭和という時代のメルヘンだともいえる。

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