『浅井さんがしっかりと期限を守らせるよう努める。それが、覇気のない空気を変える、たった一つの方法です』
空気を悪くしているのは私? 私がルールを守ってもらえないから空気が悪くなるっていうの? いや、口うるさく言う方が、よほど空気を悪くしてしまうのではないか。やはり、私にできることなんて、何もない。
まずはコーヒーでも淹れてくるか。今日は朝一でコーヒーを淹れなかったから不穏な思いが去来してしまうのかもしれない。
美沙の得意のジンクスのひとつがこれだった。『会社で朝一に飲むコーヒーは、一日の仕事を活性化させてくれる』。 気持ちを新たに、美沙はお気に入りのマイカップとコーヒーを片手に給湯室へ向かった。
「あっ、佳奈ちゃんだ」
給湯室へ入って行く倉橋佳奈を見ると、美沙は足早に追った。
佳奈は仕事で凹むことがあるとよくロッカーで泣いていた。数年前の自分を見ているようで、その度に美沙は慰め励ましていた。数日前も手紙で励ましたばかりだった。
しかし今の美沙は励ますどころか、自身のことすらままならない状況だ。
「今日は佳奈ちゃんに元気もらっちゃおう」
そんな気持ちで給湯室のスライド式のドアに手を掛けかけた。
そのとき—— 薄曇りのドアの向こうからかすかに声が届いた。
あれ? 給湯室、佳奈ちゃんだけじゃないんだ。
「佳奈も手紙、もらったんでしょ?」
この声は佳奈ちゃんの同期の藤野さん?
「あっ、うん」 「あたしもさ、ちょっと上司にキツイこと言われてロッカーで泣いてたとき浅井さんに遭遇しちゃって。そしたら『頑張りすぎないでね!』みたいな手紙くれてさ。ちょっと気付かないフリして欲しいときもあるじゃない? 浅井さんってちょっとお節介なとこあるよね」
えっ……この声は高田さん?
「それあるかも。いまのこの状況でも明るく挨拶なんかしちゃって、ちょっと空気読めてないっていうか。頑張りすぎないでね! って浅井さんの常套句だけどさ、こんな状況でそんなこと言われてもね。なんか無責任というか。佳奈もそう思わない?」
ガシャン。
突然の物音に驚いた佳奈は、急いでドアをスライドさせた。
「あっ、浅井さん……」
「あっ、ごめん。カップ落としちゃって……」
落したマイカップを慌てて拾い上げ次の言葉を必死に探すも、いまの美沙からは何もでてこなかった。
佳奈とのおしゃべりで元気をもらおうなどと考えていた自分が惨めでたまらない。魔法をかけられたかのごとく美沙は身動きが取れないでいた。
すると、低くて野太い天使の声が崖っぷちの美沙を救い上げた。
「浅井さん、だからもう少しゆっくり歩いてください、と言ったのに。本当にあなたはせっかちですね」
えっ? あの天使の声って……坂井部長!?
振り向き坂井の顔を確認した藤野は、すがるように坂井に挨拶をした。
「お疲れ様です。坂井部長」
「お疲れ様です。経理部の藤野さん、ちょうど終わったところですか?」
「あっ、はい」
「それはナイスタイミングでした。私たちは“ちょうどいま”来たところだったので」
「そ、それなら良かったです。じゃあ失礼します」 藤野、高田、佳奈の同期三人組は、ペコリと頭を下げて足早に去って行った。
坂井部長、一体いつから後ろにいたんだろう……。
「浅井さん」
ドキっ。一瞬肩が跳ねる。
「浅井さんの笑顔、」
「えっ?」
「に元気をもらっている。そう植松さんがおっしゃっていました」
「えっ、植松さんが?」
植松さんは観葉植物に水をやりにきているオジサンだ。年の頃は六十手前といったところだろうか。オフィスではなかなか雑談ができない性格の美沙だが、たまに顔を合わせる植松さんと雑談をするのは大好きだった。
「浅井さんと話していると気持ちが和む、とも」
えっ……もしかして、励ましてくれているの?
「浅井さん、」
「は、はい」
「あなたから笑顔を取ったら、何が残るんですか?」
えっ?
突然放たれたその言葉を理解するには少し時間がかかった。
放心状態の美沙をかまうことなく坂井は次の言葉を放った。
「『ハッピーがスマイルの前にくるのは、辞書の中だけです』」
え?
「『快適が行動の前にくるのも、辞書の中だけです』」
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