結果が出ない努力に意味はない
努力することに意味があるなどと言うのは単なる人生論であって、仕事に関して言えば「成功」という結果が出ない努力に意味はない。いや、そう考えるしかないのである。
僕の口癖は「これほどの努力を、人は運と言う」だ。幻冬舎からベストセラーが出たり、新しい事業が成功すると、「運がいいですね」と言う人がいる。そんなとき、僕は「おかげさまで運がいいんですよ」と返しながら心の中で舌打ちする。「俺はあんたの100倍血を流し、努力しているのだ」と独りごちる。
圧倒的努力とは何か。人が寝ているときに寝ないで働く。人が休んでいるときに休まずに働く。どこから手をつけたらいいのか解らない膨大な仕事に、手をつけてやり切る。
「無理だ」「不可能だ」と人があきらめる仕事を敢えて選び、その仕事をねじ伏せる。人があきらめたとしても、自分だけはあきらめない。
こうした圧倒的努力は、当然のことながら苦難を極める。辛さでのたうち廻り、連日悪夢にうなされることもしばしばだ。
だが、僕は圧倒的努力をやめない。覚悟を決め、自分がやるべき仕事と対座する。憂鬱でなければ、仕事じゃない。毎日辛くて、毎日憂鬱な仕事をやり切った時、結果は厳然とあらわれる。
今でこそ会いたい人には会えるようになったが、僕だって最初は誰からも相手にしてもらえなかった。この世には二種類の人間しかいない。 圧倒的努力を続ける人と、途中で努力を放棄する人だ。苦しくても努力を続ければ、必ずチャンスは巡って来る。死ぬ気で努力するから、大きなチャンスをこの手でつかめるし、圧倒的努力が10重なった時、初めて結果が出るのだ。
若い頃の僕は、どうしても五木寛之さんと仕事をしたくて25通もの手紙を書き続けた。どんなに短いエッセイでも対談でも、上下二巻にわたる長篇小説の書き下ろしでも、五木さんの新しい原稿が発表された時には、5日以内に必ず感想を書いて送ると決めた。五木寛之という名前の「五」になぞらえたのだ。
手紙には、通り一遍の感想を書いたところで意味がない。作家にとって新しい発見と新しい刺激が手紙に書き込まれていなければ、並み居る編集者の中から無名の僕が指名されることはない。相手を刺激する感想を書くというのは大変なことだ。
僕は高校時代に五木さんの『さらばモスクワ愚連隊』を読んで以来、熱狂していたから編集者として絶対に一緒に仕事をしたいと思った。結果、五木さんにはそれまで付き合いがなかった角川書店に原稿を書いて頂き、単行本は50万部の大ヒットになった。
石原慎太郎さんに初めて会いに行った時には、50本のバラの花束を持って行った。そんなプレゼントは、所詮は若造の浅知恵である。石原さんは「男に花をもらったのは初めてだな」と苦笑していたが、こんなことくらいで作家の胸を打つことはできない。
僕は花束を持って行っただけでなく、石原さんの『太陽の季節』と『処刑の部屋』を目の前で全文暗誦しようとした。「龍哉が強く英子に魅かれたのは」という書き出しから何行かで終わりにするのではなく、文字どおり全文を
『太陽の季節』を全文暗誦し始めた時、石原さんは「わかった。もういい。お前とは仕事をするよ」と言ってくれた。
僕は松本清張さんと仕事をすることはなかったが、もし原稿を頼みに行くのであれば、膨大な著作を全部読み切ってから出かけただろう。どの作品の話題になっても会話できるように、すべての作品を読み込んで入念に準備してから会談に臨むのは当然だ。
「松本清張の本なんてあまりにも数が多すぎる。とてもすべては読めない」と愚痴を言っている暇があったら、すぐに1冊目から読み始めたほうがいいに決まっている。寝る間を惜しみ、食事する時間さえも惜しみ、朝から晩まで読書漬けになればいい。「もうダメだ」からが本当の努力である。
圧倒的努力ができるかどうかは、要は心の問題なのだ。どんなに苦しくても仕事を途中で放り出さず、誰よりも自分に厳しく途方もない努力を重ねる。できるかできないかではなく、やるかやらないかの差が勝負を決するのだ。
次回「売れない本に価値はない」3/16更新予定です。
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