電気サーカス 第19回

電話回線とテレホーダイでネットに接続していた時代。『テキストサイト』をはじめた“僕”は、家を出て高校時代の友人たちと共同生活を開始。オフ会に参加したり、カラオケボックスでバイトをしたりと、気ままな毎日を送っていた。

 しかしこうなっては、絶対に店の同僚に本名を教えることは出来ない。
 万一何かのはずみで『ミズヤグチ』という言葉を検索してしまったならば、僕のサイトが一番上に来てしまうのは確認済みだ。仮に同僚がそれをクリックしたとしよう。すると、気色が悪いとインターネットの皆さんにお褒め頂いている、あの珍妙な文章を目にすることになってしまうのだ。僕はサイトに職場における陰口や愚痴などを書いたことはかつて一度もないが、そういう問題ではない。
 あんな、筆者の人間性への疑念しか抱かせぬような、書いた本人さえも読み返すと羞恥のあまり死にたくなるような、恥知らずな文章を同僚に見られてしまったならば僕のこの職場での立場がどうなるか? まず間違いなく僕が本性を隠して築き上げた、頼りになる男、役に立つ男、裏表のない親切な男、といったポジティブな虚像が『痴人の愛』の主人公河合譲治の、ナオミに出会ってからの人間性みたいに容易く崩れ去ってしまうに違いない。
 いや、そもそも、毎日ネットに文章をアップロードしているという行為自体、インターネットと関わりの薄い人間からしたら不気味なものであるはずだ。そのことは、ネット日記を書くような人間ならば誰でも自覚している。だから僕は、このバイト先で自分の本名を一言も口に出したことはなかったし、今後何があっても秘匿し続けるつもりでいる。テキストサイト管理人というものは、隠れキリシタンのように密やかでなければならない。
 机の上にマイク修理作業の道具を一通り並べ終わる頃、タバタさんがグラスにコーラを入れて持って来てくれた。僕はそれを一口飲んでため息をつく。
 時計の針はまだ十四時で、フリータイムの終わるのは十八時だった。マイクの修理も終えてしまった僕は、監視カメラのモニターを見ながらタバタさんの話を聞いている。
 最近新しい恋人が出来たそうなのだが、どうもうまく行っていないらしい。その愚痴を僕に言って同意を求めて来るのである。至ってどうでも良い話なのだが、面と向かってそう言うのも気の毒だ。
 ほどほどにタバタさんの話を肯定し、またほどほどに相手の男を擁護したりもして、バランスに気をつけながら聞いていると、彼女は勝手に気を取り直して、今度は逆にその彼氏の美点などを並べてのろけはじめる。結局幸せで仕方がないのだろう。今日遅刻したのだって、飲み会だと言っていたが、本当かどうか。それを指摘してみたら、タバタさんは「えへへ」と照れ笑いをする。
 やがてフリータイム終了の時刻が訪れる。出勤して来たばかりの店長とタバタさんにレジを任せ、僕はルーム清掃にまわった。
 時にはドリンクをひっくり返してテーブルやソファーがべとべとになっていたり、モニターの裏に何に使ったのかわからないティッシュなどが落ちたりしているものだが、今日は常識的に使用されていたので清掃も楽だった。トレイに回収したグラスを満載してパントリーに戻って来ると、厨房にはシェフとオグラさんが出勤している。
「おはようございます」
 僕が挨拶をすると「ああ、おはよう」「おはよう」と声が帰って来る。
 二人とも白いコックコートを身につけ、野菜を刻んだり、調味料を混ぜて仕込みをしている。居酒屋の厨房で働いていた僕は、彼らがどんなものを作っているのか気にしながら、グラスを洗浄機にかけた。
「しのぴー、ちょっと食べる?」

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電気サーカス

唐辺葉介

まだ高速デジタル回線も24時間接続も普及しておらず、皆が電話回線とテレホーダイを使ってインターネットに接続していた時代。個人サイトで自己表現を試みる若者達がいた……。

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