第2回】宝塚歌劇のビジネスモデル

大学卒業後、阪急電鉄に入社。駅務員、車掌、運転士を経て宝塚歌劇団にかかわるようになった森下信雄さん。歌劇団にて制作課長、星組プロデューサーとなり、その後宝塚総支配人として宝塚歌劇事業全般を担当しました。その森下さんが2015年1月に刊行した『元・宝塚総支配人が語る「タカラヅカ」の経営戦略』より一部編集して、そのエッセンスを全4回にてお届けいたします。

黎明期の戦略

 兵庫県南部に位置する宝塚は、鎌倉時代開湯の由緒ある温泉地であると伝えられています。温泉は1884年、武庫川右岸に発見されたことに始まったと言われ、1897年に阪鶴鉄道(現在のJR福知山線)が開業、多くの湯治客が訪れるようになって、一躍その名を知られるようになりました。

 つまり、1910年に箕面有馬電気軌道(現在の阪急宝塚線)を開業し、その旅客誘致のため武庫川左岸に翌年「宝塚新温泉」を開業させた小林一三率いる阪急は、宝塚の開発については「後発」参入企業だったと言えるでしょう。

 ちなみに、当時の社名に有馬という文字が入っているのは、当初は宝塚の先、有馬温泉まで電車を通す目論見があったから、とされています。しかし、鉄道開通によって日帰り客増加に対する温泉側の反対と、山岳路線となるための難工事とコストアップが予想されたために、有馬延伸は頓挫しました。

 そして、その宝塚新温泉に併設される形で開業したわが国初の室内プールが、男女混泳の禁止による不人気のため閉鎖。残った脱衣場を舞台、プールを客席として改装した「劇場」のアトラクションとして、その当時人気を博していた三越少年音楽隊にヒントを得て1913年に誕生した宝塚唱歌隊が宝塚歌劇団の前身です。つまり、宝塚歌劇は「温泉場の余興」としてその歴史をスタートさせたのでした。

 その後、新温泉利用客は無料で歌劇を観劇できたため、徐々に観劇客数を増やしました。1918年に東京進出、翌年には宝塚少女歌劇団を発足。1921年には公演数増加により花組・月組の2組体制へ増強、1924年に収容人数3000名の宝塚大劇場開場及び3組目の雪組誕生、1925年に年間12公演実施……というのがおおまかな歴史です。

 宝塚歌劇は発足当初から事業自体で利益計上することは求められず、阪急電鉄の本業である鉄道事業への旅客誘致策という位置づけが明確であったために「量的拡大」の素地が出来上がっていたと解釈できます。1公演ごとの収益性よりもむしろ、年間通して公演を実施する方を優先する—。それによって、阪急の本業である鉄道事業の発展に資することが黎明期の宝塚歌劇には求められていたと言えるでしょう。

 くわえて劇場と劇団は所与の形で存在し、さらには量的拡大・通年公演を志向することの必要十分条件として舞台製作及び制作、そして販売促進という主要な業務も宝塚という土地に集中して立地することとなったのです。

 この経緯を振り返ると、宝塚歌劇の誕生および黎明期の位置づけは度重なる「偶然性」の産物であることがご理解頂けるでしょう。繰り返しになりますが、阪急が後発企業で鉄道の旅客誘致のための方策として温泉開発がなされたこと、室内プールが男女混泳禁止のために不人気で閉鎖されたこと、そのプールをこともあろうに劇場に改装する小林一三の発想、そしてアトラクションとして当時流行していた男子唱歌隊の女子版を小林が着想したこと……。これら偶然性が幾重にも重なり合い、宝塚歌劇はその歴史をスタートさせたわけです。

気楽な立ち位置によって生まれた独特なポジション

 この黎明期以来のポジショニングは、宝塚歌劇が単独での事業性を問われない「気楽な立ち位置」であり、劇場がガラガラで万年赤字体質であったとしてもグループの広告塔的存在並びにメセナを先取りしたオーナー家の「道楽」だとして、次第に関西圏を中心に世間的に認知されていきました。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

角川新書

この連載について

初回を読む
元・宝塚総支配人が語る「タカラヅカ」の経営戦略

森下信雄

100周年を迎えた宝塚歌劇団。競争激しいエンターテイメント業界でこれほど長く続けられている理由とは。垂直統合型システム、著作権管理方法、ロングラン興業のための5組化・・・。その秘密が今、明かされる。

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

Tweetがありません