日本建築論

帝冠様式=ハエ男!?「様式のキメラ」からの出発:第3章(1)

20世紀以降の日本建築には、「日本という国への意識」が脈々と流れています。だから、日本の建築を見れば、「日本とは何か」「日本的なるものとは何か」という問いに対峙することになる。 本連載は、伊勢神宮、国会議事堂、桂離宮、日光東照宮など、シンボリックな有名建築をとりあげ、それらを巡って重ねられてきた議論を追います。日本のナショナリズムとモダニズムの相克が、いま蘇る!

○帝冠様式とは何か

 20世紀初頭まで、万博における日本館は異国趣味をくすぐる伝統的な建築が多かったこと、また1930年代にヴェネツィアビエンナーレの会場に建設する予定だった幻の日本館プロジェクトが存在し、これも入母屋をのせた二階建ての案だったことを確認した。

 特に後者は、帝冠様式と類似したデザインである。が、そもそも、帝冠様式という言葉は、どのような場合に使うべきなのだろうか。

 最近、ふと疑問に思ったのは、『あいち建築ガイド』で徳川美術館(1935)の解説を執筆したときだった。なるほど、徳川美術館は鯱をのせた入母屋屋根や白壁・石垣など、名古屋らしく城郭風である一方、躯体は鉄筋コンクリート造だ。また設計に関わった渡辺仁は、帝冠様式の代表とされる上野の東京国立博物館(1937)を手がけている。実際、この徳川美術館についての既存の解説を幾つか調べても、帝冠様式として括られていた。さらに名古屋は、名古屋市役所(1933)と愛知県庁舎(1938)が現在も残っており、いずれも帝冠様式の代表的な建築として知られている。ならば、同時期の徳川美術館も、そうみなしやすいかもしれない。

東京国立博物館(1937年 設計:渡辺仁)

 が、これには違和感を覚えた。その理由のひとつは、徳川美術館が公立ではなく、私設の建物であることだ。一般的に帝冠様式とされる建築は、神奈川県庁(1928)など、庁舎が多い。言うまでもなく、権力の建築である。

 後述するが、もともと「帝冠様式」という言葉は、国会議事堂のデザインをどうすべきかという明治末から続く議論のなかで、1920年に下田菊太郎が新しい様式による自らの提案に「帝冠併合式」と命名したことに由来するとされてきた。ドイツのナチズムやイタリアのファシズムとは違い、政治家が建築家に指示してつくらせたものではないにせよ、「帝」という文字を含む以上、政治的な含意をもつ施設に使うべきではないか。

 帝冠様式の事例としては、伝統的なデザインを求めたコンペを通じて実現された国立や公立の建築も挙げられる。また国策によって奨励された観光ホテルも含むだろう。だが、徳川美術館は、そのいずれでもない。

 政治性を一切抜いて、造形だけで帝冠様式と呼ぶ立場もありうるかもしれない。艦コレのだいぶ前から、すでに帝冠様式をキャラ化し、猫耳になぞらえるようなウェブサイトが登場するような時代を迎えているのだから。

 が、そうだとしても、徳川美術館は「冠」だけが「帝」=和風になっているというよりは、下部もほとんどが日本建築のテイストなのだ。全体がそうならば、普通に和風の建築と呼ぶ方が自然に思われる。

 ちなみに、純粋に造形だけで、帝冠様式を規定した場合、必ずしも日本に固有なものでなく、アジアの各地に同じような建築が存在する。近代化を迎え、木造から鉄筋コンクリート造に移行したアジア圏は、どこもアイデンティティの問題に直面し、伝統的な屋根の形式をのせるという手法を普遍的に試みているからだ。もちろん、屋根の勾配や細部に地域性の違いがあらわれるが、日本の古建築は中国から影響を受けてきたので、意外に区別は難しいだろう。


○ハエと男の合体、あるいは融合

 帝冠様式を見ると、どうしても思いだしてしまう映画がある。

 約30年を隔てた2本のSF映画、『蠅男の恐怖』(1958)と『ザ・フライ』(1986)だ。原題は同じく、『THE FLY』だが、異なるものを組み合わせるデザインに関して、それぞれの手法を提示している。

 左:『蠅男の恐怖』(1958年)シリーズ、右:『ザ・フライ』(1986年)

 前者は、物質転送装置の実験中、偶然にまぎれこんだハエが科学者の身体と合体するというものだ。しかし、異なるものの組み合わせは、きわめて即物的に表現され、現在のわれわれから見ると、いささかユーモラスでさえある。人間の胴体に、そのまま大きなハエの頭がのっているからだ。なお、映画の最後には、小さなハエの胴体に人間の頭がのっている分身も登場する。

 これは20世紀のSFだが、古典的な怪物像と言えるかもしれない。ギリシア神話のキメラ(頭は獅子、胴体は山羊、尾はドラゴン)からロマネスク建築の柱頭に徘徊した想像上の動物まで、怪物とは基本的に既存の動物を解体し、その各部分の合体によって構成されてきた。

 一方、後者の『ザ・フライ』は、デビッド・クローネンバーグ監督による、前者のリメイク版である。物語のプロットは同じだが、表現と展開が違う。ハエがまぎれこむ転送の直後は、目に見える変化は起きず、科学者は人間のままだった。しかし、やがて彼は体調の異常に気づき、徐々に変身しながら、最後はついにグロテスクなハエ男に変貌を遂げる。この怪物は単純な合体ではない。人間とハエの境界線をはっきりと分けられない融合である。

 2つの映画における表現の違いは、そのまま時代の背景を反映している。つまり、物語としてはDNAの解明にいそしむ遺伝子学の進化、また映像技術としては複雑な変身をリアルに見せるSFXの発達に起因するだろう。ちなみに、『ザ・フライ2 二世誕生』(1989)も、混合遺伝子がテーマになっていた。ともあれ、『ザ・フライ』においては、人間と昆虫の混成体は、違うレベルにおいて表現しうるのである。

 合体か、融合か。言うまでもなく、『蠅男の恐怖』は前者である。これに登場する木に竹を接いだような唐突な組み合わせは、帝冠様式を想起させるだろう。


○下田菊太郎の「帝冠併合式」

 近代以降の日本建築は、一方的に西洋化という進歩の道を歩んだだけではなく、異文化の吸収が一段落したところで、自国のアイデンティティが問題となり、反動的に過去へ回帰しつつ、伝統と近代の融合というテーマを引き受けた。その過程において帝冠式というスタイルは登場した。伝統と近代がわかりやすく合体したデザインは、抽象的なヴォリュームの組み合わせやプロポーションの良さを追求するモダニズムに比べて、建築を専門としない一般の人にとっつきやすく、明快にメッセージが伝わる。これは頭が日本で胴体が西洋という「和魂洋才」の直接的な建築表現としても解釈しうるだろう(茶パツは逆に頭だけが日本人らしくないが)。

 ともあれ、屋根は遠くからでも目立つ部分であり、とりわけ日本の伝統的な建築の特徴的な部位だ。なるほど、屋根はキャラ化、あるいは記号化しやすい。ゆえに、観光地の建築でも地域性を表現すべく屋根の導入が推奨される。

 「帝冠式」という言葉の由来と手法の起源としては、下田菊太郎の帝国議会案(1920)がしばしば指摘されている。彼は「建築界の黒羊」と自称し、当時建築界のドンだった辰野金吾との確執が伝えられる人物だ。そして恨みつらみを吐露すべく、日本人の建築家として初の本格的な自伝『思想と建築』((1928年)を執筆している。

 下田の案は、ウィーンの国会議事堂と似た古典主義の建築に、入母屋、唐破風、千鳥破風を複雑に組み合わせた屋根をのせたものだ。「純正な古典式(世界的立憲と同様の様式)の上に、帝位を表象すべき宮殿型」が合体する。

 なお、彼の図面には、下部が同じままで、上部をギリシア神殿風の造形に置き換えたバージョンも存在した。いわば冠、あるいは帽子をとりかえるように、上部の交換可能性をいっそう明示する。

下田菊太郎による国会議事堂2案(上:屋根が和風のバージョン、下:上部がギリシア神殿風のバージョン)

 下田は新しい様式を「帝冠併合式」と自ら命名した。大日本「帝」国を象徴する屋根が「冠」のように、西洋建築の上に君臨するからだ。彼によれば、「旧来の諸大国を新日本帝国は正に凌駕するの表象にして、大統帥綿たる世界無比の国体を有する大帝国を表象する」という。すなわち、単なる合体ではなく、むしろリテラルに上に置くことによって、西洋を超える日本を表現したものである。

 しかし、下田の案は評価されず、コンペに入選していない。そこで彼は自作のコンセプトを説明しつつ、次のような抗議文を書いている。

 まず「建築は、国民の思想と国家の品位を表明すべき目標なり」と位置づけ、コンペで多かった中央の高塔をドーム式にした提案は、「「米の平等的観念」に基づく造形であり、「建国の体制を異にし、風物の趨趣を別にする我国」では「無用の長物」だと批判する。そして「基礎的設備及胸壁は堅実なる城塁型に似たる世界的古典式に従ひ、屋蓋は皇国固有の紫宸殿様式又は内宮外宮様式の純日本式に則り、・・・彼我の長所を消化し以て之を併用すべし」という。

 だが、築地本願寺の設計などで知られる建築史家の伊東忠太は、下田の「帝冠式は奇形の捏造物」だと手厳しく批判した。そして「平安朝の束帯を著て頭に絹帽を戴いた」ように、ちぐはぐな「狂建築」であり、構造的にも不合理であり、「国辱」ものだとぼろくそに述べている。なるほど、伊東は木造から石造への建築進化論を唱えたが、帝冠式は構造と意匠の調停を放棄したものとみなされても仕方ないかもしれない。


○介入する異国のまなざし

 ところで、新しいデザインに行き詰まり、19世紀のヨーロッパを席巻した折衷主義も、複数の様式をカタログ的に組み合わせていた。例えば、エジプトやアッシリアの様式も混入したブリュッセル裁判所(1883)である。古典主義とゴシックなど、本来相いれない様式を並置させるケースもあった。すなわち、様式そのものが、ビルディングタイプの性格やTPOにあわせて、操作と選択、また組み合わせが可能な対象として認識されていた。

ブリュッセル裁判所(1883年)

 ゆえに、そうしたデザインの知識があれば、日本において帝冠式は下田でなくとも、いずれ誰かが発想したに違いない。実際、彼の案を批判した伊東の東京都慰霊堂(1930)なども異なる要素の折衷だった。

 とはいえ、下田が議事堂のコンペにおいて帝冠式の原型を考案した事実は興味深い。下田は渡米した最初期の日本人建築家だった。当時、彼の議事堂案は、外国人に評価されたらしいが、帝冠式の発想にはそもそも異国のまなざしが介入しているのではないか。実際、アメリカから帰国後の下田は、日本の建築界になじめず、孤立していた。

 また現在の状況からは想像しにくいが、当時、国会議事堂は、日本の建築様式を決める重要な試金石として考えられていた。将来の様式をめぐる有名な建築学会の討論会が開催されたのも、国会議事堂コンペを推進するための企画だった。国会の建築をめぐる議論についてはいずれまたとりあげるが、こうした大きな節目に帝冠式は登場したのである。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

この連載について

初回を読む
日本建築論

五十嵐太郎

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

ninetailsfox63 https://t.co/eXTLVEW9KU ”大日本「帝」国を象徴する屋根が「冠」のように、西洋建築の上に君臨するからだ。” 即位の儀式を見ていて確認したが、やはり日本国においては帝は存在するけど冠は存在しない。公家としては烏… https://t.co/2TyW0cL5w1 1年以上前 replyretweetfavorite

ninetailsfox63 https://t.co/C2L36nVNti このおっさんどものコスプレは帝冠併合様式2案で示された概念そのもの。 https://t.co/eXTLVFdKCs やたら屋根ばかりの話になっちゃったのは、日本では高層建物を建てて… https://t.co/2iKCx8cB3C 2年以上前 replyretweetfavorite

gamabin 様式のキメラ――第3章(1) 5年以上前 replyretweetfavorite

consaba 様式のキメラ――第3章(1) 5年以上前 replyretweetfavorite