「いま起きた。びっくりしたよ。迎え入れる前に起こしてくれたっていいじゃないか。あやうく部屋で寝てるところを来客に見せるところだった」
僕が愚痴ると、
「開けたまま寝てる方が悪い」
タミさんは笑顔で至極もっともなことを言う。
そのまま二人で通り過ぎてゆくのかと思いきや、恋人は廊下に立ち止まったまま室内の僕に話しかけて来た。
「すみません。ちょっといいですか?今度ミズヤグチさんに会ったら、何か小説を薦めてもらおうと思ってたんですよ」
意外なことを言う。何故僕がこの人に小説を? これまでは本当に挨拶程度の付き合いで、まともに会話したことだってないのだ。薦めようにもどういう人間だか知らない。
あ、もしかしたらサイトでも見られたんだろうか? そして向こうの方が一方的に僕を知ったような気になって、こんな質問をして来ているのかもしらん。タミさんが「これが同居人の日記だよ。どうだい気持ち悪いだろう。面白可笑しいだろう。本人もこのままなんだぜ」などと言いつつURLを教えたと考えればあり得る話だが、だとしたら相当恥ずかしいのだけれど。
確かめたかったが、しかし「僕のサイト見てますか?」「日記読んでますか?」と過剰な自意識を剥き出しにした質問をする訳にもいかない。そんな恥ずかしい言葉を口にしたらおしまいだ。
「ああ、うん、別にいいですけど」
困惑しつつ頭を掻くと、壁際に積み上げた文庫本の背表紙を眺め、何か渡せる本がないか探した。
「ちょうど最近読み終わったんで、これ」
僕は一番上に積んであった新潮文庫を手に取った。ラディゲの『肉体の悪魔』が収録してあるやつだ。コクトーを読むついでに読んだのだけれどちっとも面白くなかった。それを彼女に手渡したのである。
「ありがとうございます。読むのに少し時間かかっちゃうかもしれませんけど」
「別にいいよ。おれにあわなかったのを処分するだけだから。返してくれなくても大丈夫。気にしないで貰ってよ」
彼女は冗談と受け取って苦笑しているけれど、僕は真実をありのまま口にしただけだったので、なんとも申し訳ない。
それにしたって、友人の恋人と、こんな友人の入る余地のない会話をしているのはなんだか気まずくて、そわそわと落ち着かないものだ。僕に下心などがある訳でもないし、向こうもごく日常的な会話としてこんな要求をしたのだとは思うが、こういう状況自体が苦手だ。
本を渡せば用件が済むから、それで立ち去ってくれるのかと期待して即座に要らない本を押しつけたのだけれど、しかし彼女はまだそこに立ったままにこやかに話しかけようとする。
僕の方からは特に話題がないので、曖昧に答えるばかりだ。しかし、この妙な興味の持たれ方は、やっぱりサイトを見られているのではないだろうか?そうでなければちょっと説明がつかないような気がするぞ。
「ミズヤグチさんて、『罪と罰』に出て来るラスコーリニコフに似てますよね」
ふと彼女が僕の有名なロシアの小説の登場人物に喩えて言うと、
「いやそれならむしろ、スヴィドリガイロフだろう」
タミさんが真顔でそう訂正し、そこでようやく彼女の手を引いて戸口を立ち去った。
やっと僕は一人になって、寂しいような、ほっとしたような。とりあえずため息をつく。
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