電気サーカス 第16回

電話回線とテレホーダイでネットに接続していた時代。『テキストサイト』をはじめた“僕”は、サイトを通じて知り合った宇見戸に誘われ、オフ会に参加。そこで女子中学生の“増岡”と出会い、彼女の気ままな行動に戸惑う。そして12月になり……。

 ああそうだ、もう少し活力があった頃の僕は、優しい妻と家庭を作って、子供などを育てる平和な生活、そんなものを心から憎んでいたような気がする。それからマイホーム、マイカー、大きな犬。当時信じていた『世にも普通の家庭』を構成する数々の要素である。何故嫌っていたのかと言うと、自分の手に入らないからだ。悔しかったからだ。とすると、あれが僕の本当の望みだったのかもしれないな。寂しくて不安な気持ちにならずに安心してそこにいられる、気持ちのいい場所が欲しかったんだ。
 あれから僕は少し大人になったが、それらに手が届かないのは変わらない。それどころか、学校もやめて、こんなところでフリーターをして、むしろあの頃よりもさらに遠ざかった。結婚はおろか、定職だってありゃしない。どんな仕事をすればいいって言うんだ? 世間は大不況で、僕よりずっとマシな人間だって行き場は限られている。家業があれば良かったが、僕には家そのものが存在しない。テレビに出ている賢そうな連中はもう日本が滅亡するかのような口調で話すけれど、その前に僕が個人的に滅亡しそうだ。
 しかし、ここでもし奇跡的な何かが起きて、その『普通の家庭』ってやつを仮に手に入れられたとしても、それはそれで良くないのだろうな。手に入れたその後で醒めてしまったら、その最後の望みにまで醒めてしまったら、もう僕はこの世で夢を見る場所がなくなってしまうじゃないか。そして醒めた後だって家庭は残るんだ。興味がなくなった妻や子供を、どうするつもりだ? そうだ、捨てればいいんだね。あの愛しきパパみたいに。あはは、親の背中を見て育つ。
 結局、このまま遠くで憧れているだけがいいんだろう。いつだって、手に入らないものを遠くから空想している時間が幸せなんだ。それに、欲しいものが『平和な家庭』だなんて、いかにもありふれて、しみったれた願望だよ。野暮ったい幻滅だよ。おれはもっと鋭利に生きてゆきたい。独善的に生きてゆきたい。何一つ生産したりするものか。私は全てを否定する霊です、って、これは何の言葉だっけ? 『ファウスト』のメフィストフェレスだったかな? あれは初めて自分の小遣いで買った海外文学だったっけ。そして初めて読んだ戯曲でもあった。東武ストアの二階にあった小さな本屋で、イージーリスニングの流れるなかその文庫本を手に取ると、どれだけ長い間棚ざらしにされていたのか、背表紙も中身も茶黄色っぽく変色していたんだ。内容はちっとも理解出来ないながらも、遠い場所の遠い時代の人間の言葉に触れられるというそれだけでひどく興奮した。あの頃はとにかく身の回りの全てが嫌で、離れた世界のことばかり考えていた。生活というものを嫌悪していた。食事や満腹感が嫌いだった。掃除機や冷蔵庫が嫌いだった。そして他人が最初から持ってるようなものは、何にも欲しがったりしないって、心に決めていたんだ。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes・note会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

週刊アスキー

この連載について

初回を読む
電気サーカス

唐辺葉介

まだ高速デジタル回線も24時間接続も普及しておらず、皆が電話回線とテレホーダイを使ってインターネットに接続していた時代。個人サイトで自己表現を試みる若者達がいた……。

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード