3年がかりで完成させた醤油卓上瓶
戦後日本を代表するインダストリアル(工業)デザイナー・
醤油卓上瓶は、榮久庵率いるGKインダストリアルデザイン研究所(現・GKデザイン機構)が1958年に野田醤油(現・キッコーマン)の依頼を受けて検討を始めたものだ。当時、醤油は多くの家庭で流し台の下に一升瓶に入って置かれていた。食卓で使うには、主婦が台所からその重い瓶を出してきて、醤油差しにこぼさないよう注意しながら移し替える必要があった。それは結構な重労働であり、実際に榮久庵の母親はそれで腰を痛めたという。その手間を省くにはどうすればいいのか。榮久庵は産地直送というコンセプトを打ち出す。このころ千葉から東京へ農作物を背負って売りに来る人たちがおり、醤油もそんなふうに、工場で小容器に詰めたものをそのまま卓上に置けるようにできないかと考えたのだ。
容器の素材にはガラスを用いることにした。これなら残量がどれだけあるか一目で確認できるからだ。榮久庵はこうした使いやすさや合理性とあわせて、形の美しさも追求した。ここで彼が頭に浮かべたのは、女性が瓶を手にしたとき、立てた小指のフォルムに美しさが表れた光景だ。ここから首が細く、下へ行くほどどっしりとしたあの安定型の瓶が生まれた。首の太さも女性がつかみやすいサイズにした。
注ぎ口となるキャップの色はあれこれと試したうえで、いちばん目に付き、温かみもある赤を選んだ。開発の過程でもっとも苦労したのはこの注ぎ口の形だった。急須などのように下側が突き出す受け口の形では、どうしても醤油のしずくが垂れてしまう。模型を100以上つくっても、切れのいい注ぎ口の醤油瓶ができない。一体どうすればいいのか。試行錯誤の末に、逆転の発想で注ぎ口を上側に出ている形にしてみた。すると醤油が垂れることはなくなり、やっと完成を見る。商品化されたのは1961年と、じつに注文を受けてから3年かかったことになる。
醤油卓上瓶は、これまで何度かデザイン変更の提案がなされたものの、結局いちどもモデルチェンジされることなく半世紀以上にわたり愛用されている。これについて榮久庵自身は名誉なこととしつつ、《「諸行無常が世のならい」と言うのならば、逆にいったいいつ消えていくのか。確かに、あまりに一般化してしまって、新たな消費を生み出す対象ではないのですね》とも語っている(榮久庵憲司『デザインに人生を賭ける』)。
ここに出てくる諸行無常とは、世の中のあらゆるものは常に変化し生滅して、永久不変なものはないと説く仏教の命題の一つだ。この例にかぎらず榮久庵はデザインを仏教と結びつけて語ることが多かった。あまたある著書のなかにも『仏壇と自動車』『袈裟とデザイン』といったタイトルが見られる。これというのも、榮久庵が仏門の家に生まれ、自らも僧籍を持つ仏教者としての一面を持っていたからだ。以下、異色ともいうべきその経歴をちょっとたどってみたい。
広島の焼け跡から見つけた父のベッド
榮久庵憲司は1929年に東京に生まれた。両親とも広島出身だが、進学先の東京で知り合い学生のまま結婚していた。父親の生家は広島の永久寺といい、小さな寺だったため「永久庵」とも呼ばれた。これを「えくあん」と発音したのが榮久庵姓の由来だという。父はこの翌年、妻と幼い息子を連れて浄土宗のハワイ開教区開教師としてハワイに渡った。以後、榮久庵は小学2年生で帰国して東京の小学校に編入するまでこの地で育つことになる。
太平洋戦争末期の1944年10月、父が広島市の戒善寺の住職となったため、家族(両親のほか弟と2人の妹)は疎開という目的もあり、このとき東京の旧制中学3年だった長男の榮久庵を残して広島に引っ越した。それからまもなくして榮久庵も広島県の江田島にあった海軍兵学校を受験、合格して翌45年春に入学する。江田島に向かう途中、戒善寺に立ち寄った。一泊したあと見送ってくれたすぐ下の妹とはこれが今生の別れとなる。妹は8月6日に広島に落とされた原爆に被爆し、5日後に亡くなってしまったからだ。爆心地から2キロ離れた寺にいた父もまた被爆している。
原爆投下から約3週間後の8月25日、榮久庵は広島に戻った。街はすっかり破壊しつくされ、実家の寺も姿をとどめていなかった。このとき榮久庵は、倒壊した実家の瓦の下からアメリカ製のベッドのフレームが顔を出しているのを目にする。それは父がハワイから持ち帰ったものだった。榮久庵自身も親しみを持っていたベッドだけに、言葉にできないほどのショックを受ける。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。