第1章 投稿という新しいネットワーク 2
金色夜叉と富山唯継
雑誌界の王者は博文館だった。明治時代最大の出版社のスタートは明治二十年である。新潟県から上京した大橋佐平は、学者、政治家など著名人が新聞に寄稿したものを集めて『日本大家論 集』という雑誌の発行を思いつき、六畳二間の長屋に博文館の看板を掲げた。元手がかからないし、著作権もない(著作権法施行は明治32年)ので、そこそこに儲かった。上京したとき佐平は五十三歳になっていた。長岡で地方新聞を発行するかたわら書籍や雑誌の取次販売業の経験があった。『日本大家論集』が売れたので二十五歳の息子新太郎を呼び寄せ、土蔵のある家へ移った。のちに新太郎は尾崎紅葉の『金色夜叉』のモデルにされる。
「来年の今月今夜のこの月を俺の涙で曇らせてみせる」と恨みの見得を切って復讐を誓い高利貸しを目指すことになる苦学生の主人公間貫一ではない。おカネに眼が眩み貫一を裏切った恋人鴫沢宮(お宮)が嫁入りする相手の富山唯継、すなわち財産をタダで継ぐ息子、として登場する。『金色夜叉』の富山唯継は「三百円の金剛石」を嵌めた指輪をしているのだ。
博文館の二代目の羽振りのよさがちょうどよいモデルとされるためには、総合雑誌『太陽』が輝かしく登場していなければならない。日清戦争(明治27年)がはじまると、写真を多用した旬刊『日清戦争実記』が当たった。『太陽』の創刊は翌明治二十八年である。
十数万部が売れた創刊号の巻頭の論説には坪内逍遙、三宅雪嶺、尾崎咢堂、上田萬年ら、小説は尾崎紅葉、饗庭篁村ら、ほかに幸田露伴、志賀重昂らの名がある。芝居、相撲、茶道の記事もあった。『太陽』のページをめくれば「大家」たちに出会えるのだ。
尾崎紅葉の『金色夜叉』が読売新聞に連載されたのは明治三十年、『太陽』創刊のわずか二年後、二代目がダイヤモンドの指輪をしていてもおかしくないほど儲かっていた。『金色夜叉』は春陽堂から刊行された。春陽堂が博文館に次ぐ景気のよい出版社となるのは『金色夜叉』で大儲けをしたせいだが、紅葉の原稿は買取りだった。著作権契約がきちんとしていない時代で、その後、遺族は窮乏、未亡人は不遇のうちに亡くなった。
田山花袋と投稿少女の遭遇
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