もう「勉強」だけでは役に立たない—「よのなか科」開講の辞

暗記中心の「勉強」は、もはや役に立たない。では、かわりに何を学べばいいのか? 世の中の様々な問題を学習する「よのなか科」の生みの親である藤原和博さんが、中高生とその親のために書き下ろした新刊、『たった一度の人生を変える勉強をしよう』(朝日新聞出版)の内容の一部を、3月6日の発売に先駆けcakesでいち早くお届けします。第0章では「勉強とはなにか?」という疑問を、藤原さんが小学生だった頃の思い出と、当時の教育方針からひも解いていきます。
開講の辞


中高生のきみへ

みなさん、はじめまして。藤原和博ふじはらかずひろです。

これからみなさんには「人生を変える授業」に取り組んでいただきます。たぶん、ほとんどの人が経験したことのない、まったくあたらしいタイプの授業です。

そのおもしろさと実用性の高さは、ぼくが全面的に保証します。

たぶんうれしいニュースだと思うけど、ぼくは教育学者とか、大学の先生とか、そういう堅苦かたくるしい立場のおじさんではありません。

大学卒業後、リクルートという会社でトップ営業マンになり、東京都の公立中学校では初の民間人校長になり、現在は「ビジネス×教育×人生」をテーマに全国各地で講演するなど、アドバイザー的な立場で活動している人間です。ビジネスも教育も知っていて、ついでに人生を変える技術にちょっとだけ明るい、ひとりの先輩だと思ってください。

そこで唐突とうとつですが、みなさんに問題を出します。

「人はいったい、なんのために生きるのか?」

「人にとっての幸せとはなにか?」

これは、われわれ人類が有史ゆうし 以来ずっと答えを探し続け、いまなお誰ひとりとして明確な〝正解〞を出せずにいる課題です。むしろ〝正解〞のない課題、といってもいいかもしれません。

ぼくはあえて、この問いから今日の授業をはじめようと思います。数式や英単語、歴史の年号みたいな正解ありきの授業をやるつもりはありません。これからみなさんに取り組んでもらうのは、どこにも〝正解〞がない課題に、自分だけの答えを探していく授業です。

きみはいったい、なんのために生きるのか。きみにとっての幸せとはなにか。きみは将来、どんな大人になって、どんなよのなかをつくっていくのか。この授業を終えたあと、きみは自分の手で、これらの問いに答えを出せるようになります。

ある意味これは、「考える」ということの正体を突き詰めていく特別授業です。

考えるとは、答えを暗記することではありません。誰かのつくった答えを探す作業でもありません。「考える」とは、答えを探すことではなく、答えを「つくる」作業なのです。

いったいそれがどういうものなのか、どんなにおもしろくて、どんなに達成感のあるものなのか、一緒に学んでいきましょう。

明日からの人生を変えてしまう、とっておきの授業。

始業のベルはもうすぐです。

まず「勉強」を忘れよう

これから授業をはじめるにあたって、みんなにひとつだけ約束してほしいことがあります。とってもシンプルな、けれどもアタマの固い大人たちにはむずかしいかもしれない、たったひとつの約束事です。

それは、「勉強」という2文字を忘れる、ということ。

いまからはじめるのは、なにかを「勉強」するための授業ではないし、ましてや暗記をしたり、正解との答え合わせをしたりするような授業ではありません。むしろ、そういう「勉強」とは正反対にある授業だと思ってください。

なぜ勉強を忘れなきゃいけないのか。

その理由を説明する前に、「勉強とはなにか?」という問いについて、少しだけぼく自身の思い出話をさせてください。

あれはぼくが小学校の5年生か6年生のころだったかな。学校の課題図書として、ルナアルの「にんじん」という小説と、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」という小説を読みました。どちらも、世界の文学史に残るような名作です。

でもね、この2冊のせいで本が大嫌だいきらいになっちゃった。「なんでこんな薄暗うすぐらい話を読まなきゃいけないんだ!」って頭にきて、本というものに、ほとほとうんざりしたんだ。ようやく本のおもしろさがわかって、片っぱしから読みあさるようになったのは、大学を卒業して社会人になってからのこと。中高生のあいだは、読書なんて大嫌いだったんです。

さて、ここで考えてみてください。

どうして小学生のぼくは、文豪たちの立派すぎる名作を読んで、「おもしろくない!」と思ってしまったのでしょうか。

読書が好きじゃなかったから?

小学生には高度すぎる内容だったから?

登場人物が外国人で、カタカナの名前ばかりだったから?

違う。そうじゃない。

「学校の課題図書として、先生の選んだ本を読む」というスタイルが、まさに「勉強」そのものだったからなんだ。

これは、勉強という言葉をバラバラに分解するとよくわかります。

勉強という字は「勉めて強いる」と書くんだよね。「勉める」ってのは、ひたすら努力すること。そして「強いる」とは、むりやり押しつけること。要するに、勉強って「むりやり押しつけられた〝正解〞に向かって、がむしゃらな努力をさせられること」なんです。

だから、勉強がおもしろくないなんて、当たり前のこと。

小学校時代のぼくも、先生にむりやり「これを読みなさい」と強制されて、模範的な読書感想文(つまり正解)を書くように押しつけられたからこそ、反発したし、読書が嫌いになってしまったんだ。

これから始まる授業でぼくは、みんなになにかを押しつけようとは思わない。努力や根性を要求しようとも思わない。なぜなら、そういう従来型の「勉強」をこなしているだけでは、通用しない時代になってしまったからなんだ。

なぜ大人は「勉強」を押しつける?

従来型の「勉強」をこなすだけでは通用しない時代。これは、どういう意味でしょうか?

いい機会なので、いまみんながどんな時代を生きているのか、そして昔といまとではなにが違っているのか、考えてみることにしよう。

ぼくが子どものころ、具体的には戦後の復興期から高度成長期にかけて、日本の教育現場には三つのキーワードがありました。

「ちゃんとしなさい」

「早くしなさい」

「いい子にしなさい」

ごく普通の、どこにでもあるお説教みたいに聞こえるかもしれないね。でも、当時はこれがすごく大切なキーワードだったんだ。

ちょっとむずかしい言葉を使うなら、それが時代の要請ようせいだったから。つまり、当時の産業界が「ちゃんと」「早く」「いい子に」している人材を求めていたし、日本という国全体がそんな人材を必要としていたから。

いったいどういうことなのか、この三つの言葉の裏側に隠されたメッセージを解いてみよう。

1 ちゃんと……正しく

2 早く…………スピーディーに

いい子に……従順につまり、当時理想とされていたのは、正しく(ちゃんと)、スピーディーに(早く)、なおかつ従順に(いい子に)動く子どもだったわけ。……まるでロボットみたいな、おそろしい話に聞こえるでしょ?

でも、この教育方針が間違いだったかというと、そんなことないんだ。

当時の日本は、一人前の工業国になろうと、国じゅうが一丸となって突き進んでいた時代。国の経済がグングン伸びて、去年よりも今年が豊かになって、今年よりも来年が豊かになる、絵に描いたような「成長社会」だったんだ。

成長社会のルールは、いたってシンプル。

企業に求められたのは「もっとたくさん」「もっと安く」「もっと均質に」の3点だけ。これさえやっておけば、放っておいてもモノが売れ、会社も大きくなり、みんなの暮らしがよくなっていったんだよね。もちろん、未来は希望にあふれ、国全体が活気に満ちていました。

そんな社会で求められるのは「ちゃんと」「早く」「いい子に」できる人。「読み書きソロバン」の基礎がしっかりできて、真面目に働いてくれる人。正解ありきの「勉強」がもてはやされたのには、こんな時代背景があったんだ。

国全体が右肩上がりの成長社会では、読み書きソロバンの「勉強」さえやっておけば十分だったし、ある程度の幸せが保証されていたんだよね。


藤原和博さんの新刊、「たった一度の人生を変える勉強をしよう」は、2015年3月6日発売! ぜひご覧下さい。

たった一度の人生を変える勉強をしよう

この連載について

たった一度の人生を変える勉強をしよう

藤原和博

暗記中心の「勉強」は、もはや役に立たない。では、かわりに何を学べばいいのか? 世の中の様々な問題を学習する「よのなか科」の生みの親である藤原和博さんが、中高生とその親のために書き下ろした新刊、『たった一度の人生を変える勉強をしよう』(...もっと読む

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コメント

motokisuda 30歳の時に環境教育について考えたんですが、環境よりもっと手前の、より当事者に近い教育が必要なのかなと思っていたときに「よのなか科」に出会いました。先生でも教育者でもないのに毎晩藤原さんの授業風景動画を見ていたのが昨日のよう。 http://t.co/xxaQTHvW6z 5年以上前 replyretweetfavorite

hazkkoi 過去とは常に阿呆な時代のことである。"「考える」とは、答えを探すことではなく、答えを「つくる」作業なのです。" 5年以上前 replyretweetfavorite