終戦直後に生まれ古希を迎えた稀代の司会者の半生と、 敗戦から70年が経過した日本。
双方を重ね合わせることで、 あらためて戦後ニッポンの歩みを 検証・考察した、新感覚現代史!
まったくあたらしいタモリ本! タモリとは「日本の戦後」そのものだった!
タモリと戦後ニッポン(講談社現代新書)
60歳の地図——タモリは散歩とトリビアがすき 2
サブカルチャーの教祖が集めたレコード4000枚のゆくえ
映画評論を手始めに、ジャズや海外ミステリーなどに関する評論・雑文を多数手がけ、晩年にはサブカルチャーの教祖的な存在として若者の支持を集めた植草甚一。1979年12月に彼が71歳で亡くなったあとには、膨大な本やレコードのコレクションが遺された。
街へ出かけるたびにまとめ買いしていたという本やレコードは、植草が死ぬまで増え続け、生活スペースを侵食するほどだった。本人の自己申告によれば、1973年の時点で蔵書は約4万冊に達していた。この年、彼は東京・経堂の借家から駅前のマンションに夫人とともに引っ越したが、2DKの一室はすぐに本で満杯になり、すぐにべつの一室を借りざるをえなくなる。それでも収まりきらないので、一部は彼が多くの自著を出版していた晶文社の倉庫に運ばれたという(津野海太郎『したくないことはしない 植草甚一の青春』)。
植草の死後、この大量の蔵書をどうするかが編集者や友人たちの懸案となった。植草の書生のような存在だった高平哲郎によれば、遺品の整理によって残された夫人に1円でも多く渡るよう皆で腐心したという。それというのも、夫妻には子供がおらず、しかも生命保険に入っていなかったからだ。
けっきょく蔵書は、晶文社の編集者の津野海太郎が上司の小野二郎(英文学者)と植草の友人だった篠田
このほか、植草が印刷物を切り抜いてつくったコラージュ類など遺品の多くは、イベント会社主催による「植草甚一展」でファンに売り出された。そこでは故人の使いかけのちびた鉛筆までもが販売されたという(高平哲郎『植草さんについて知っていることを話そう』)。
それでも4000枚近くあったレコードだけは散逸させたくないと高平哲郎は思った。そこで浮かんだのがタモリにまとめて買い取ってもらうというアイデアだ。タモリはこのときすでにテレビに引っ張りだこで、高平の周囲では一番の金持ちになっていた。
タモリと植草甚一の“距離感”
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