電気サーカス 第7回

まだ高速デジタル回線も常時接続も普及しておらず、皆が電話回線とテレホーダイを使ってインターネットに接続していた時代。“テキストサイト”をはじめた“僕”は、実家を出て、高校時代の友人、逆野との共同生活をスタートさせた。

 出発した時は晴れていたというのに、まったくついていない。傘を買おうか? 見ると、売店で売れ残っている傘は五百円のものばかりじゃないか。もっと安い傘があった筈だが、もう全部売り切れていやがる。時給八百円のフリーターに五百円の傘は、高いよ。家に余ってるのに買い足したくもなし。空に手をかざして、これくらいの雨量ならなんとかなるだろうと、早足で駅を出た。
 駅はまだ新しく、地面に敷き詰められた赤とベージュのタイルの鮮やかな色彩も施工時のまま損なわれていない。まったく、こういうオシャレっぽさが僕の気に障るんだ。この間テレビの情報番組でやっていたのだけれど、この辺りの主婦は、なんとかネーゼだとか自称して気取っていやがるらしい。シロガネーゼの二番煎じなんだろうが、恥ずかしくないのかね? 全く戯けた話だ。
 嗚呼、こう、見るもの何もかもに毒づきたくなるのは悪い兆候なんだろう。仕事帰りで心が荒んでいる。精神がささくれている。僕は時給数百円の労働者のまま、悪臭のする年寄りになってしまうのだろうか? 毎日同じことを繰り返して生きてゆくのだろうか? 先のことを考えるとぞっとする。出来れば、労働などしないで暮らしてゆきたいものだなあ。
 道路ははじめは長い下り坂で、次に急な上り坂になった。この辺りは起伏が多く、平坦な道が少ない。移動にはもっぱら高級車を使う、なんとかネーゼさんには関係のない話だろうけれど、徒歩か自転車しか選択肢のない僕にはつらい地形だ。道の左右に立ち並ぶこの樹木は、桜の木なんだろうか? 春になればうっとりとするような美しい花を咲かせてくれるこの親しみ深い針葉樹は、今は黒い空に、さらに黒い影をつくって風景を陰々とするのに加担している。
 雨足が段々強くなって来て、もうここまで来てしまっては濡れながら進むしかない。くよくよするな。なあに大したことじゃない。雨といったって、所詮ただの水じゃないか。
 せめてインナーだけは守ろうと、白いフェイクレザージャケットのファスナーを目一杯上まで上げたら、襟のフェイクファーがべったりと濡れて首筋に張り付いた。すっかり土砂降りになっている。稲荷を祀った祠の前を通り過ぎる頃にはズボンもずぶ濡れになって、マウンテンシューズの内側まで水が入り込み、足指と靴下が妙に生暖かく濡れた。
 道はまた下り坂になり、野菜の無人販売所の前を通って、ショウウィンドウに蜘蛛の巣の張った定食屋の角を曲がると、最後の長い上り坂だ。ここまで来ればもう少し。雨に向かうように顔を上げると坂のてっぺんに壁のように巨大なマンションがあって、暗闇のなかに窓明かりを灯らせている。このビルには『花園シャトー』というセンスのない名前が付いているのを、僕は知っていた。
 世間は十一月となり、過ごしやすかった秋の風に冷たいものが混ざり始めている。僕は二ヶ月ほど前からこの『花園シャトー』に住んでいた。それまで逆野と二人で共同生活をしていたところに、逆野の友人たちが訪れたのがきっかけである。それまで彼らと僕とは一度か二度顔を見たことがあるかどうかくらいの間柄だったのだけれど、向こうは僕のサイトを見たことがあるとかで、顔を見るなり一方的に感想を述べられたのが気色悪かった。

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電気サーカス

唐辺葉介

まだ高速デジタル回線も24時間接続も普及しておらず、皆が電話回線とテレホーダイを使ってインターネットに接続していた時代。個人サイトで自己表現を試みる若者達がいた……。

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