強い」って言われると嬉しい?

健康で体が強く、より早く、より多くのものを生み出す効率の良さが経済活動では推奨されています。
そうしなくては勝ち残れない世界。それは本当に正しいのでしょうか?? 
私たちはより少なく、より遅く、より弱い生き方で自由になれるのではないでしょうか? 
文化人類学者の辻信一さんがこれからの私たちに必要な新しい生き方考え方を提案する連載、第1回。

つよいのは もろい
もろいのが つよい
ただしいは まちがっていて
まちがいが  ただしかった
(長田弘「ねむりのもりのはなし」より)

弱さの難しさ

 これからきみたちと一緒に、「弱さ」について考えていこうと思う。「弱さ」の反対は「強さ」だ(ということになっている)から、「弱さについて考えること」は「強さについて考えること」ことと切り離すことができない。


  言っておかなければならないのは、「弱さ」や「強さ」について考えるのは易しくはないし、なかなか面倒だ、ということ。きみがもし、その難しさにもう気づいているなら、幸いなことだ。というのは、この難しさのことさえクリアしてしまえば、もうそれだけで、きみは「強さ」や「弱さ」のことが半分はわかったと言えるくらいなのだから。「弱さ」について考えることの難しさの大半は、その入り口のところにある、と言ってもいい。その難しさとして、主なものを二つ挙げておこう。

 難しさの第一は、だれも「強い」「弱い」という言葉を難しいと思っていないこと、単純で、誰にでも明快な、わかりきった言葉だと思いこんでいることだ。では「強弱」がどんなふうにわかりやすいかと言えば、それは「大小」とか、「長短」とかがわかりやすいのと同 じだ。つまり、大小や長短が計測できるように、どちらが強くて、どちらが弱いかも数値によって客観的に示せる、と考えられている。

  でも、もちろんそれはおかしい。確かに、握力や腕力の強さ、風の強さなどは計って数値で示すことができるかもしれないが、意志の強さとか、願望の強さを計測することはできない。つまり、強さや弱さというものは単に多いか少ないかという量の問題ではなく、質の問題でもある。

 そんなのはあたりまえだときみは思うかもしれないが、しかし、世の中には強弱をただ量的なものとしてとらえる変な傾向が支配的なのだ。だから、「弱さ」についてよりよく理解しようと思ったら、この変な傾向について考えることも避けて通れない。


「強い」のは良いことなの?

 第二の問題は、「強さ」「弱さ」というあたりまえの言葉に、価値判断がくっついていること。「強い」のは良いこと、「弱い」のは悪いこと、とされていて、ほとんどの人がそう思いこんでいる。「強い」と言われればうれしいし、「弱い」と言われればうれしくない。
  考えてみれば、これもおかしなことだ。例えば、先にあげた「大小」でも、大きいのと小さいのと、どちらがいいか、なんて決められるわけがない。大きいことが良いことで、小さいのは悪いことなどというのは、あまりに単純な決めつけだ。大きいことが良いとは限らないし、小さいことが悪いとは限らない。大きいカバンは小さいのに比べて、たくさんのものを入れることができて便利だが、場所もとるし、運ぶのには重くて不便だ。

 良いか 悪いかは、「時と場合による」のだ。この「時と場合による」というのが肝心だ。これは「相対的」と呼ばれる考え方で、ものごとの価値が文脈—つまり、他 との関係—によって異なることを言う。一方、文脈に関わらず、いつでもどこでも、同じ価値をもつ、というのは「絶対的」だ。

  きみはよく「絶対」という言葉を使うんじゃないかな。でも、これには注意した方がいい。考えてみればすぐわかるように、何ごとにも文脈はつきものだ。小さい時計は近寄らないと時間がわからないので壁にかけるのには向いていないが、腕につけたり、ポケットに入れて運ぶのにはいい。

 「大きいことが良いとは限らないし、小さいことが悪いとは限らない」と言えるとすれば、同じように、「強いことが良いとは限らないし、弱いことが悪いとは限らない」と言えるはずだ。

勝者が正しいって本当?

 ついでに、もうひとつ、つけ加えておきたい。それは、「良いことがいつも良いとは限らないし、悪いことがいつも悪いとは限らない」ということ。つまり、「良い」「悪い」もまた絶対的ではなく、相対的な価値なのだ。時と場合によって、社会的、歴史的な文脈によって、何が「良い」か、何が「正しい」か、は異なる。「善悪」や「正邪」といった倫理的な価値観ですら、絶対ではない、ということだ。


 ぼくたちは日々、相手が悪くて、自分こそが絶対正しいと主張し合う者同士の衝突を見ている。そして実際の歴史を見てみれば、やはり、非は相手にあり、正義は当方にあると主張する共同体同士、国家同士の対立や争いが繰り返されてきた。けんかも戦争も、互いに「正しさ」を主張し合いながら、結局どちらも自分の「正しさ」を証明することができずに、「強弱」で決着をつけようとする。 そして、勝者、つまり強い者が正しく、敗者である弱い者が間違っていたかのようなイメージがつくり出される。実に変な話だ。


 ともあれ、時と場合によって、社会によって、時代によって、人によって価値観が異なることもある、ということを心に刻んでおいてほしい。自分自身の内でさえ、年齢によって、季節によって、日によって、「正しい」の意味が変わることはあるのだから。 そう考えれば、他の人たちがきみとは異なる価値観をもっていることに対しても、もっと穏やかで広い心で接することができるだろう。

イラスト/瀬山直子

※次回「勝者が正しいって本当?」は3月27日です。


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この連載について

弱虫」でいいんだよ

辻信一

私たちの生きる世界では「終わりなき経済成長」をテーマに人々が邁進しています。それをこなすのは大変です。誰もが効率的に働かなければ世界が回らないと思い込んでいます。過剰な世界を支えるのは「強い人たち」です。健康で体が強く、より早く、より...もっと読む

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コメント

la_sirene15 これ以降を読むには有料登録が必要なようです。私は弱い価値観に共感する性質なので、この話がとても響きます。更に違う視点から今を考えられるのかも。/ 約5年前 replyretweetfavorite

akira_jt もうちょっと踏み込んだ話まであったら良かった。強いは人の解釈、だから?の先に。 約5年前 replyretweetfavorite

nozakuni これはハッとさせられる良記事。 約5年前 replyretweetfavorite

kayabonbonbon しっかり、そしてじんわりする記事でした。このようにありたいと理想を持っていたい。現実はそうじゃないけど、だからこそ理想をね。 約5年前 replyretweetfavorite