日本建築論

理解される日は来るか。ベタでない日本らしさ:第2章(4)

20世紀以降の日本建築には、「日本という国への意識」が脈々と流れています。だから、日本の建築を見れば、「日本とは何か」「日本的なるものとは何か」という問いに対峙することになる。 本連載は、伊勢神宮、国会議事堂、桂離宮、日光東照宮など、シンボリックな有名建築をとりあげ、それらを巡って重ねられてきた議論を追います。日本のナショナリズムとモダニズムの相克が、いま蘇る!

○環境性能の表現

 21世紀の万博における日本館は、うねうねした造形が続いた。とりわけ印象的なのは、坂茂(ばん・しげる)がフライ・オットーをコンサルタントに迎えて設計した2000年のハノーバー国際博覧会日本館だろう。大きな繭のような建築である。彼が得意とする紙管の格子がうねるシェルの曲面をつくるものだが、環境問題をテーマとした万博の方向性とも合致し、解体してリサイクルやリユースができるデザインを提示した。長さ74m、幅35mの大空間をおおう、最高約16mに到達する屋根も紙の膜を貼っている。そして事務棟は、レンタル・コンテナを用いた。万博における日本館の歴史において、画期的なデザインだ。坂による一連の建築も、こうした性格をもつからこそ、世界的な評価を獲得している。

ハノーバー国際博覧会日本館〔2002年 設計:坂 茂 撮影:Hiroyuki Hirai

 興味深いのは、坂が雑誌の紹介記事において、あくまでも素材、構法、構造など、システムや技術的な冒険についてのみ説明していることだ(『新建築』2000年8月号)。合理性が導いた屋根の形状であり、日本的という言葉はない。

 だが、おそらく海外の人はこれを日本的と感じるだろう。これが明るくて軽い、紙の建築だからである。言うまでもなく、異国から見ると、日本の伝統的な建築が木や紙でつくられていることは大きな特徴だ。したがって、形態のレベルではほとんど類似性はないが、素材の選択や開放的な空間は日本的と受けとられるだろう。

 建築における合理的な発想は、坂がアメリカで学んだものだが、彼が日本人であることで、紙を素材に使うと、そうした特別な意味が発生する。


○デザインの重要度低下

 その後の日本館は、環境性能を前面に押し出す一方、建築的なデザインとしてはあまり注目されなくなった。実際、建築雑誌での紹介も少ない。

 愛・地球博の名称で知られる2005年の日本国際博覧会の長久手日本館は、長さ90m、幅70mの空間を高さ19mの巨大な竹籠で覆う。デザインを担当した日本設計によれば、テーマの「自然の叡智」に対して、コクマザサの外壁や光触媒の金属屋根など、11のサステナブルな新技術をもって解答したパヴィリオンである(『新建築』2005年5月号)。ただ、これはばらばらのサンプルを並べたショーケースの建築で、デザインとしての統一性がない。

 愛・地球博のもうひとつの日本館、山下設計による瀬戸日本館も、土地改変を最小とするために突きだす形態、国産カラマツ集成材のパネルによる準耐火性能の外壁をもち、中央に風の塔を備える。言い訳建築のようだ。

 ちなみに、大阪万博の公式ガイドブックでは、モントリオール万博にならってか、パヴィリオンの設計者を記していたが、愛・地球博のガイドでは、一切それがない。建築家から組織設計事務所と広告代理店へ。デザインの重要性が大きく減じた状況を示しているかのようだ。

 2010年の上海万博における日本設計の日本館は、紫のなまこというべき外形と、構造の柱であり、屋内外の自然環境をとりこむ6つのエコチューブをもつ。伝統的な環境技術と最先端の環境技術を融合する「近未来型環境建築の実験型モデル」をめざしたという(『新建築』2010年5月号)。やはり、これもスペックの建築である。愛知と上海の日本館はいずれも不定形な屋根が目立つが、洗練されたデザインではないのが残念だった。

 2015年に開催されるミラノ万博の日本館は、北川原温が建築プロデューサー、石本建築事務所が設計を担当する体制になっている。そのデザインの指針は、「日本の伝統文化と先端技術の融合」を行うべく、環境性能をもつ立体木格子が特徴だという(公式HP http://www.expo2015.jp/about/pavilion/ )

 なるほど、安藤忠雄と坂茂による日本館は、伝統文化と現代技術の融合、そして環境性能という新機軸を打ちだした。が、今やそれが紋切り型の表現となり、組織設計事務所によるスペックの足し算建築が続いている。


○ ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館

 続いて万博の時代というべき19世紀末、1895年にスタートし、メイン会場のジャルディーニ公園に国別のパヴィリオンが並ぶ、ヴェネツィア・ビエンナーレを概観しよう。日本は早くも1897年の第二回展に参加し、大量の美術工芸を展示した(『ヴェネツィア・ビエンナーレ—日本参加の40年』国際交流基金、1995年)。その後、戦前に中央館やアメリカ館で日本人の作家が紹介されているが、国としての公式参加ではない。

 1931年には、国際美術協会が民間の募金によって日本館を建設する計画をたちあげ、翌年にビエンナーレ当局に図面を送っている。これは近代的な躯体に伝統的な入母屋の屋根をのせた帝冠様式と呼ばれるデザインだった。当時、高揚するナショナリズムを反映し、日本で流行していたもので、いわば東京国立博物館(1937)を縮小したような造形である。しかし、このプランは場所の問題や戦争の拡大により実現しなかった。そしてオーストラリアが放棄したパヴィリオンを引き継ぐ計画も、太平洋戦争の激化によって消えてしまう。

 結局、日本が公式にビエンナーレに参加したのは、戦後の1952年であり、これ以降、本格的に日本館が検討されることになった。当局から土地を提供されたものの、日本側に資金がなく、一時は実現が危ぶまれたが、外務省が支出する300万円とブリヂストンタイヤの社長、石橋正二郎による2000万円の寄付によって建設された。石橋は美術コレクターであり、建築好きでも知られ、東京国立近代美術館(1969)の建設費も寄付している。


○ 帝冠様式とは異なる感性

 日本館の設計者は、建築界の推薦によって、ル・コルビュジエのアトリエでの勤務を終え、フランスから帰国したばかりの吉阪隆正に決まった。1937年のパリ万博における坂倉準三の起用、1958年のブリュッセル万博における前川國男と同様、ル・コルビュジエの系譜の建築家が重視されている。

 吉阪は、1917年生まれの日本人としてはめずらしく、父が国連の仕事をしていた関係で、幼少のときからジュネーブと日本を行き来したり、ヨーロッパを旅行していたコスモポリタンだった。帝冠様式とは異なる精神をもった建築家である。帝冠様式が屋根というわかりやすい記号によって日本らしさをあらわすのに対し、吉阪は外部の自然をとりこむ空間やランドスケープへの配慮において日本的な感性を継承した。

 各国のパヴィリオンのなかで、1956年に完成した日本館はユニークな場所にたつ。ここは敷地が平らではない。建築が高低差のあるランドスケープと絡みあい、それが大きな特徴になっている。ピロティの形式は師匠譲りのように思われるかもしれない。もっとも、モダニズムのピロティが大地と切り離す建築的な装置だったのに対し、日本館のそれはジャルディーニの小さな丘地と複雑な関係性をもつ。ピロティの足元は彫刻の展示空間として想定され、左側の階段を登ってまわりこむと、メインの玄関から、直接に持ち上げられた展示室の内部に入ることができる。

ジャルディーニにおいて、このように地形をいかしたパヴィリオンはほかにないだろう。2002年にピロティに倉庫とトイレが増築され、階段脇にスロープが付加された結果、下方がふさがれ、光が入りにくくなった。しかし、その後、伊東豊雄が手がけた最新の改修によって、オリジナルに近い状態に戻されている。

 日本館の図面には、石の細かい配置や敷石の割付、植栽や池までも克明に描かれていた。既存の樹木を切り倒さないよう配慮しつつ、屈曲したアプローチや建物の配置を決めていることがわかる。ピロティのレベルでは、壁柱しか表現されないから、建築の存在感は薄く、まるで庭の図面のようだ。建築が「図」となり、外構が「地」となるのではなく、両者が一体として構想されている。

 吉阪は山登りが好きで、自然を愛した建築家だった。ゆえに、自然と対決するモダニズムではない。また当初、天井はガラスブロックを通じて自然光が入り、とくにその中央は86cm角の開口部、床の中央にも約175cm角の開口部をもち、外部から光や風が入る空間だった。内部と外部を遮断せず、一体化させるものだが、これらも後に改築されている。実際、繊細な絵画にとって良好ではない環境であり、当初からデザインを評価しつつも、展示場としての機能を疑問視する声があった。


○建築展は何を展示してきたのか

 ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展は100年以上続いており、日本館としての参加は半世紀に及ぶ。一方、公式の国際建築展は遅れて1980年にスタートし、日本館としては1991年から参加している。

 特筆すべきは、1996年から2004年までの磯崎新体制というべき期間の展示だろう。1996年、2000年、2002年は彼自身が日本館のコミッショナーとなった。また、1996年の「亀裂」では、建築展において阪神淡路大震災の瓦礫を持ち込んだ特異なインスタレーションや、宮本隆司による破壊された街の巨大写真が話題を呼び、日本館として初の金獅子賞を受賞している。

 このとき、塞がれていた天井と床の穴を、再び開けたことも興味深い。積まれた瓦礫と大きな写真によって廃墟を再現した暗い部屋に、パンテオンのトップライトのごとく、天から垂直に光が降り注ぐ。吉阪アトリエの元所員は、この展示によって最初の姿が戻ったことに感激し、もともと日本館は敗戦後の焼け跡から建築が復興していった具体的な形として構想されたものだという見解を述べている。

 2000年は「少女都市」をテーマに掲げ、最年少作家のできやよいらが参加し、少女の感性を表現すべく、SANAAが日本館の内外を純白の空間に変えたことが印象的だった。2002年は「漢字」の文化圏である。

そして2004年は、コミッショナーである磯崎の推薦によって、若手の森川嘉一郎が抜擢された。テーマは、秋葉原やコミケのオタク文化に注目した「OTAKU:人格=空間=都市」である。これは、日本的な時空間の概念を紹介すべく1978年に磯崎が企画し世界各地を巡回した「間」展を下敷きにしながら、当時のキーワードであった「侘び」や「寂び」などを、「萌え」や「やおい」に転換している。

 廃墟、少女、オタク、いずれも普通の建築展ではない。むしろ、建築のイメージを壊していくようなものだ。すなわち、1960年代に磯崎新が、同世代のアーキグラムやスーパースタジオらを紹介しつつ、「建築の解体」を論じたことを想起すれば、1990年代から2000年代にかけて、若い世代を登用しつつ、新しい「建築の解体」を反復していたと言えるだろう。


○プレスの期待と日本的現実(リアル)

 しかし、いつまでもアイロニカルな方法を続けるわけにはいかない。そこで筆者が2008年に日本館のコミッショナーとして関わり、作家として石上純也を提案したときは、「終わりから始まりへ」をコンセプトに掲げた。

 この頃は指名コンペが行われていたが、日本館のまわりに華奢な温室群を建設するという計画に対し、審査員から幾度も、それは日本的なものを表現しているのかと質問された。正直、このとき筆者と石上は日本らしさをまったく意識しておらず、むしろ吉阪建築の解釈を増幅すべく、外部と内部の境界を曖昧にするようなランドスケープ的な環境の形成をめざした。

ヴェネチア・ビエンナーレ日本館・国際建築展2009年。吉阪隆正による日本館本体の周りに、石上純也によるガラスの<温室>が建てられている。

 だが、実際にビエンナーレが始まると、日本を強く意識せざるをえなかった。

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日本建築論

五十嵐太郎

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市...もっと読む

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okuno_ao https://t.co/cYXVXo3p 3年以上前 replyretweetfavorite

gamabin 日本館テーマの未来――第2章(4)万国博覧会における<日本館らしさ> | 約5年前 replyretweetfavorite

consaba 日本館テーマの未来――第2章(4)万国博覧会における<日本館らしさ>建築展は何を展示してきたのか | 約5年前 replyretweetfavorite