まえがき
僕の仕事場は東京の都心、港区西麻布にある。明治四十二年(大日本帝国陸地測量部製)の大判の地図があるのでめくってみると、東京市麻布区となっている。西麻布などという呼び名は新しい住居表示の結果で、たかだか三、四十年の歴史しかない。僕のいる場所の旧町名は笄町である。両隣に高樹町と霞町があり、さらに霞町のつぎが材木町、六本木町とつづく。現在は笄、高樹、霞町が西麻布、材木、六本木町が六本木である。ベテランのタクシーの運転手さんには行き先を旧町名で伝えると、意気に感じてなのか愛想が格段によくなる。 仕事場から歩いて数分の青山墓地は、思索をめぐらせながら散歩するには最適である。六本木ヒルズや東京ミッドタウンが聳え立っていても青山墓地には明治時代がそのまま保存されていて、歴史の香りがほのかに漂っているから。
先日、『金色夜叉』を書いた尾崎紅葉の墓に出会ったが、意外に小振りなのは未亡人が困窮の果てに亡くなったせいだろう。流行作家の草分けなのに著作権制度がなく、遺族は恩恵を受ける権利を逸した。 今度は藤村家之墓の脇に「藤村 操君絶命辞」が建っていることに気づいた。華厳の滝に飛び込んだあの藤村操が、こんな近くにいるんだなあ、と自分が重層的な時間のなかに生きていることを実感するのだ。 あの、と書いたがいまの若い人たちはまったく知らないようで、どう言ったらよいかと考えているうちに、「自分探し」の第一号だよ、と説明することにした。
藤村操は数えで十八、満で十六歳だった。第一高等学校の一年生、といってもこれもまた説明を要する。旧制中学は五年制、そのうえに三年制の旧制高等学校があった。一高とはいまの東大駒場にあたるが、当時の一学年はわずか二百名ちょっと、パンダとまではいかないがめったに巡り合わない超エリートなのだ。
尾崎紅葉の『金色夜叉』では主人公は苦学生の間貫一で、一高生で黒いマントをはおっているのは、それとなくめずらしい新時代の生き物を表すシンボルとして、である。
旧制中学では優秀な生徒は、四年を終えたところで高等学校を受験できる、四修という飛び級制度があった。時代が安定しきっておらず回り道をして二十歳を過ぎ入学する者もいる。したがって四修の藤村操は一高では最年少生徒のひとりだった。
彼が入学し半年ほど経ったころ、ロンドン留学から帰国した夏目金之助(漱石)が一高講師となった。 漱石はある生徒に訳読をふった。するとその生徒は「やって来ませんでした」と昂然とした態度だった。「なぜやって来ない」と訊くと「やりたくなかったからやって来ませんでした」と答えるので、むっとしたが次回までに予習しておくように、と注意するに留めた。つぎの時間、再びあてるとまた「やって来ませんでした」と言うので「勉強したくなければ、教室に来るな」と叱った。
事件は明治三十六年五月二十二日に起きた。いつものように学校へ行くと家を出たまま翌日になっても帰らない。母親が机の引き出しを開けたら書き置きが出てきた。四方八方捜索した。日光の小西旅館から本人筆記による「世界に益なき身の生きてかひなきを悟りたれば、華厳の滝に投じて身を果たす」との郵書が届いた。叔父や従兄弟が駆けつけるが、すでに姿はない。
華厳の滝の落ち口の岩のうえに蝙蝠傘が突きたてられており、傍らのどんぐり(水楢)の大樹の脇に硯と筆とナイフが置いてあった。幹をナイフで削って、「巌頭之感」と題された短文が記されていた。
「悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーシヨの哲学竟に何等のオーソリチーを価するものぞ、万有の真相は唯一言にして悉す。曰く『不可解』。我この恨を懐いて煩悶終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを」
宇宙と世界の空間的な拡がり、はるかな歴史と現在という時間の拡がり、そういうなかで自分はいったいどこにいるのか、どうしたらよいのか、悩んで悩んで答えが見つからない。という程度のことなのだが、漢文脈で記すと何となく見栄えのよい文章に見える。
シェイクスピアの『ハムレット』に登場するホレーショは、ハムレットに「この天地のあいだには、人智の思いも及ばぬことが幾らもあるのだ」と言われる。自分はホレーショのごとき俗物ではない、と言いたいのである。 華厳の滝への飛び込み自殺は大々的に報じられた。すぐに遺体が上がらなかったこともあり、昨今ならばワイドショーや週刊誌がこぞって取り上げる体で、早稲田の学生が話題の小西旅館に泊まってから飛び込む始末。流行現象となった。
明治時代は、国家をつくる時代である。幕末から明治維新にかけ動乱を仕掛けた吉田松陰、西郷隆盛、坂本龍馬、高杉晋作らを第一世代だとすれば、伊藤博文、山県有朋ら第二世代はすでに明治憲法までつくりあげた。そして第三世代の官僚たちがヨーロッパから帰国し(鴎外や漱石など文学者を含めて)、明治国家は急速に成熟の域に入った。
さてこれからどうするか。自分はなにをすればよいのか。新しい世代の役割、当面の目標が見えないのでひとりが「不可解」と叫ぶと、そうだ、そうだ、と反響を呼び起こしたのである。同級生に落第が相次ぐ。
漱石は、生徒に「君、藤村はどうして死んだのだい?」と訊いた。「先生、心配ありません、大丈夫です」とその生徒は答えた。「心配ないことがあるものか。だって死んじまったじゃないか」というやりとりを、江藤淳は『漱石とその時代』に記し、こう述べている。
「彼はおそらく藤村の内面をおびやかしていたなにものかに、自分もまたおびやかされていると感じていたのである」
成熟国家では、果たすべき役割が見えない、という不安である。かつては学歴エリートのみが味わった余計者意識だ。藤村操の自殺は一種の自傷行為ともいえる。だがこうした悩みは、当時ではかなりぜいたくなもので、日本中の若者に行き渡る時代が来るなど想像のほかであった。
著者・猪瀬直樹さんのインタビューを同時掲載。こちらとあわせてお読みください。
『作家の誕生』猪瀬直樹インタビュー - 読者投稿が作った「雑誌」と「作家」