兄妹そろって芥川賞作家を出した家族
日本でもっとも有名な文学賞である芥川賞と直木賞は1935年に始まった。80年におよぶその歴史のなかで、きょうだいで受賞者というケースがいまのところ三組ある。直木賞では今日出海(1950年上期)とその兄の今東光(1956年下期)、芥川賞では吉行淳之介(1954年上期)とその15歳下の妹の吉行理恵(1981年上期)のそれぞれ一組ずつ。そして芥川賞・直木賞をまたぐのは、1980年下期の芥川賞の尾辻克彦(赤瀬川原平)と1995年上期の直木賞の赤瀬川
ついでにいえば親子での受賞も、両賞を通じていまのところ直木賞の白石一郎(1987年上期)と白石一文(2009年下期)の一例しかない。ただし歴代受賞者には親も文学者という二世作家が何人かいる。芥川賞の青野聰(青野季吉)・池澤夏樹(福永武彦)・大岡玲(大岡信)・金原ひとみ(金原瑞人)・朝吹真理子(朝吹亮二)、直木賞の井上荒野(井上光晴)などがその例にあたる(以上、カッコ内は親の名前)。そういえば、前出の吉行淳之介・理恵の父親も吉行エイスケという昭和初期の新興芸術派の小説家だった。
もっとも兄妹が父・エイスケから文学面で直接影響を受けたとは考えにくい。1940年に父親が死んだときまだ1歳だった理恵は当然として、当時16歳だった淳之介も文学に目覚めたのはさほど早くはなかったらしい。母親で美容師の吉行あぐり(2015年1月5日没、107歳)によれば、淳之介は高校入学と前後して病気で休学していたとき、「ママ、僕も何か文学書を読もうかな」と言い出したという。そこで母は石坂洋次郎と阿部知二の本をすすめたとか(吉行あぐり『梅桃が実るとき』)。石坂は当時の人気作家だが、阿部はエイスケと同じ新興芸術派の作家だったことから選んだのだろうか。
理恵が芥川賞を受賞したとき、兄・淳之介は選考委員のひとりだった。最初に理恵の作品が同賞の候補になった際には投票を棄権した淳之介だが、このときは参加し「15歳年下の妹というのは、他人のようで他人でない厄介な存在だ」との選評を残している。一方、作家となってからの理恵にとって淳之介は、兄という以上に文壇の大先輩という存在であったようだ。理恵は芥川賞受賞後、3年がかりで「赤い庭」という作品を書き上げた。それを読んだ淳之介が上の妹の和子(女優)を介して「あれはなかなかいい作品だった」と伝えると、彼女は「お兄さんに褒められたのは初めてで、芥川賞をとったときと同じぐらいうれしい」と感激をあらわにしたという(吉行、前掲書)。
弟の「兄貴は文学青年だった」発言を否定
作家の父を持つ吉行兄妹に対し、兄弟で直木賞と芥川賞を受賞した赤瀬川隼と原平の父親は倉庫会社に勤務するサラリーマンだった。父は転勤が多く、そのたびに家族を連れて引っ越しをした。長男の隼(本名・
隼は少年時代から文章を書くのが好きだった。他方、のちに画家となる原平は小さいころから絵を描いていた。2人を含め兄弟は三男三女の6人おり、隼と原平のあいだの三女は匿名でよく手記を雑誌などに投稿しては賞金を稼いでいたという。父も「骨茶」という雅号で俳句を詠み、いちばん近しかった叔父も油絵をかなり本格的に描いていた。原平は自宅の玄関に飾ってあったその叔父の絵を見ては、いつも「うまいな」と思っていたという。両親が芸術に関して子供たちに特別に教育していたわけではないが、隼は《なんとなくそういう空気があったというのがよかったんじゃないか》と作家になってから振り返っている。《子供っていうのは、はっきりと見えるものについては反抗するし、押しつけられるとなおさら逃げ出したくなるものだと思う。感じる程度だったらかえって影響を受けていくのかもしれない》というのだ(『潮』1982年12月号)。
この隼の発言は原平との対談でのものだが、このとき弟から「兄貴が中学のころに書いた小説を読んだ」と不意に告白されている。隼に言わせるとそれは自発的に書いたものではなく、仲間でキャンプに行く際に、皆で小説を書きテントのなかで発表しようということになって書いたものだったらしい。
原平は兄が文学青年だったとずっと思いこんでいたようだ。隼が直木賞に決まったときにも、「兄貴はもともと文学青年だったから」と新聞にコメントした。だがこれについては、その後の兄弟対談で本人からきっぱりと否定されている(『文藝春秋』1995年9月号)。
組合活動と野球
終戦直後、隼は旧制中学4年から新制の大分第一高校(現・大分上野丘高校)2年に編入する。その際、文学部に勧誘されたものの、じつは彼がいちばん入りたくなかったのがこの部だった。部誌に載る創作を読んでも、小さなことを無理にひねって深刻がっている感じがして、そういう雰囲気の合評の場にはとても加わる気になれなかったという(赤瀬川隼『人は道草を食って生きる』)。けっきょく彼は新聞部に入り、3年生のときには編集長も務めた。反抗心だけは旺盛で、その内容をめぐって顧問の教師と衝突したり発行禁止にされたりもした。そのなかで漠然とだが、大学を出てシナリオライターか新聞記者になりたいと思うようになる。
しかし戦後、父が財閥解体のあおりを食って三井系の会社を解雇されてからというもの、一家の経済状態はどん底にあった。隼は大学進学を断念して就職を余儀なくされる。とにかく東京に出たかった彼は、高校に来ていた就職情報で大手都市銀行が「勤務地希望可、旅費支給」と募集しているのを見つけて即座に飛びついた。ところが上京を前にして、旅費はとりあえず自分で払い、東京に着いてから清算しろと伝えられる。家にはとてもそんな金はない。そこで隼はその銀行の大分支店まで行って前借りさせてもらう。このとき申し出を受けた総務課長は「前代未聞だ」と目を丸くしたそうだ。
こうして隼は1950年早春、夜行列車で上京して就職したものの、仕事はちっとも面白くない。おりからの朝鮮戦争の特需で残業が増え、そのうえ夜間学校にも通っていたので、日曜にはくたくたに疲れて遊びに出かける気力も湧かなかった。やがて労働組合を唯一の自由な場所として見出し、その機関紙にせっせと投稿するようになる。労組の年報に投稿したラジオドラマのための反体制的なシナリオが、「よい原稿をお返ししなければならない現実を悲しく思います」との手紙とともに送り返されてきたこともあった。そのうちに東京から北九州へ、本人いわく「組合活動ゆえに飛ばされ」た。だが、夜学通いがなくなり少し余裕ができたため、週末ともなれば福岡の平和台球場へプロ野球観戦に通い出す。1954年のことだ。ちょうどこの年、同球場を本拠地とする西鉄ライオンズ(現・埼玉西武)がパ・リーグで初優勝し、翌々年からの日本シリーズ3連覇へと続く黄金時代を迎えていた。
隼の野球との出会いは少年時代、芦屋に住んでいたころにさかのぼる。このとき父親に連れられて何度か甲子園球場へ旧制中学の試合(全国大会ではなく近県大会のようなゲームだったらしい)を見に行ったという。プロ野球を見始めたのは大分で終戦を迎えてからで、最初はジャイアンツのファンになる。同じ九州の熊本出身の川上哲治が活躍していたからだ。
以後、銀行退職を挟んで、転居するたびに地元のチームを応援することになる。就職で上京したときには、結成まもない国鉄スワローズ(現・東京ヤクルト)をルーキー金田正一の大活躍に魅せられて応援していた。さらに下って1970年代、名古屋にいたときには中日ドラゴンズ、広島にいたときには広島カープがそれぞれ優勝してファンになっている。のちに横浜に住むようになってからは、どこのチームのファンかと問われると《十二球団全部のファンですが、その中で一番ファン性の濃厚なのはホエールズ[横浜大洋ホエールズ、現・横浜DeNAベイスターズ——引用者注]です》と答えるようにしていた(赤瀬川隼『野球の匂いと音がする』)。この点、弟の原平が子供のころから一貫してジャイアンツファンだったのとは対照的である。
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