大学を卒業する間近、仲の良かった男の先輩が結婚するというので、お祝いに二人で飲みに行くことになった。
2年生になってから入ったサークルで、始めから、何かと良くしてくれた先輩だった。2つ学年が離れていたけれど、サークルで浮いていた私のことを、「小野ちゃんは変わっていて面白いね」と擁護してくれて、いつも飲みに誘ってくれた人だった。
先輩は、卒業して銀行に就職していた。会うのは、先輩が大学を卒業して以来だ。スーツ姿で現れた先輩は、相変わらずスポーツ焼けでまっ黒で、たくましい顔つきをしていたけれど、びしっとまっすぐなシャツの襟の白さと、夏休みの小学生みたいな浅黒い肌の色のギャップは、最後に見た頼りないリクルートスーツ姿の時よりもずっとずっと大きかった。その時、就職もなにも決まっていなかった私には、先輩がすっかり「社会の人」になってしまった感じがして、遠い世界にいるようで、なんだかうまく話せなかった。
先輩は飲みながらひとしきり仕事の大変さを話したあと、どうして結婚に至ったか、の話をした。
私はうん、うん、と聞いていた。ほかに、仕様がなかったから。
先輩はぽろっと漏らした。
「小野ちゃんは若いから分からないだろうけど、25歳くらいになるとね、周りがどんどん結婚しはじめて、焦ってくるんだよ。俺の周りを見ていてもね、どちらが幸せかっていうとやっぱりね、嫁ぎ遅れて仕事しかしていないっていう女の人と比べたら、結婚して、子どもを持って、家庭に入っているほうが、幸せだよ」
私は何も答えられなかった。尊敬していた先輩の口からそんな言葉が出たことが、ただただショックだった。先輩のお母さんは、きっと、専業主婦なんだろうなぁ、とぼんやり思った。反論することも、
こう言った時の先輩の顔は、嬉しそうでも、悲しそうでもなかった。
ただ、分厚い「世間の真理」のようなものを、私と彼自身に、必死に覆いかぶせようとしているのが見えた。
そうすることで、自分の痛む部分を、満足できない何かを、見えなくさせたいのかもしれなかった。
傷ついたふりも、否定も肯定も、してやるもんか。
他人の幸せを、勝手に自分のものさしで測ってしまう鈍さは暴力だ、と思う。
ただ、私たちはどうしても、ときおりどうしようもなく鈍い。鈍くなることで、自分を守らないと、生きていけない。もろい部分は、人によって違う。その部分を人に見せまいと、ときおり、ものさしを振り回す。
ある人は傲慢に、まるで、それをすることが当然の権利だとでも言うように、自分のものさしを他人の頬に押し当てて、跡がついたことを確認しては、満足げに去ってゆく。
ある人はほっとするために、自分のものさしが社会的な効力を発揮していることを確かめるために、こわごわと押し当てて、反応を確かめる。
自分の後ろにあるものが、ちゃんと機能しているかどうかを知るために、世間の前に、そっと、立ててみる。自分の影が他人を追い越す、その寸法を測ってみる。そうして、長ければ長い分だけ、薄い喜びをかみしめる。
それは、目の前に相手がいさえすれば、とても簡単にできる、痛み止めの作法なのだ。
とってもとっても簡単な、社会から教えられた、傷つきやすさの麻酔薬だ。
いつからだろう、他人のものさしに、ときおりひどく傷つくようになったのは。
学生の頃、私はなんだか苦しくて、暇を見つけては旅に出ていた。
大学になじめず、ふてくされて世界一周の旅に出たことも、就職活動中にパニック障害にかかり、スペイン北部のキリスト教の巡礼路「カミーノ・デ・サンティアゴ」を500km歩く旅に出たのも、そのせいだった。
言い換えるとそれは、日本の社会からの逃げだった。でも、わたしはなんだかしんどくて、言い様のない重圧から逃れるために、旅に出ていた。
スペインを巡礼している途中、とあるカナダ人のカップルに出会った。ナタリーとティム。共に67歳の大学教授だ。20年近くの連れ合いだという。カナダの中西部のサスカチュワン地方の小都市で、6人でルームシェア暮らしをしているそうだ。
帰国後は、共に環境活動に関わってゆくつもりだ、と、ナタリーはほがらかな笑顔で言っていた。
彼らがあまりにもぴったりと寄り添っているので、私はずっと彼らを夫婦だと思っていた。けれど、知り合ってから数日経ったある日、ナタリーにふと、「あなたの夫はどこ?」と聞いた時、「夫じゃなくて、パートナーよ」と言い直されて驚いた。
ナタリー
「なんで結婚しないでも平気なの?」とナタリーに聞くと、ナタリーは微笑みながら言った。
「安定の道、自由の道、どちらがあなたの道?」
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