タモリが語った『いいとも!』長寿の秘訣

1982年にスタートした『笑っていいとも!』も、スタートから15年を超えていた90年代。今でこそほとんどインタビューを受けることがなくなったタモリですが、当時は様々な媒体でインタビューに答えていました。長寿番組と言われるようになっていた『いいとも!』に、タモリはどのようなスタンスで取り組んでいたのか。当時の記事から振り返ります。

終戦直後に生まれ古希を迎えた稀代の司会者の半生と、 敗戦から70年が経過した日本。
双方を重ね合わせることで、 あらためて戦後ニッポンの歩みを 検証・考察した、新感覚現代史!
まったくあたらしいタモリ本! タモリとは「日本の戦後」そのものだった!

タモリと戦後ニッポン(講談社現代新書)

50歳の地図—タモリ・リスペクト・ブームへ 2

結成後すぐ“陽水が裏切って”解散した「人望のない会」

1997年6月、タモリは1週間ほど写真週刊誌『FOCUS』の密着取材を受けた。このときの記事(同月25日号に掲載)には、彼が番組収録中のスタジオからテレホンカードで友人に電話をかける様子が書かれている。この年、日本における携帯電話の保有率は46.0パーセントと、前年の24.9パーセントから大幅に拡大していた。その2年前にサービスの始まったPHS(簡易型携帯電話)の保有率も15.3パーセントと前年の7.8パーセントから倍近く伸びており、急速な普及ぶりがうかがえる。そのなかにあってタモリはまだ、携帯電話を持っていなかったのだ。先の記事によれば《携帯電話を持たないですむというのは、幸せな境遇にある》というのがその理由だった。記事中ではさらに、タモリが「携帯電話を持たない会」なる会をミュージシャンの井上陽水と作家の海老沢泰久とともに結成していることも明かされた。

ちなみにこの二人とタモリは、その少し前には「人望のない会」というのを組んでいた。これは「人望を得ようとするのは卑しい」との主張から結成されたもので、第1回の集会を神保町で開催したという。だが陽水が若手のミュージシャンから人望を集めるようになり—「陽水が裏切った」とはタモリの弁—、そこに海老沢が賞を取ったこと(『FOCUS』の記事中には明記されていないが、直木賞のことだろう)が重なったため、会は解散となったとか。

このころ陽水を慕っていた若手ミュージシャンといえば奥田民生が思い浮かぶ。1996年には、奥田のプロデュースする女性デュオPUFFYのデビュー曲に陽水が歌詞を提供している。それが大ヒットとなった「アジアの純真」だが、陽水はもともと「熊猫深山」というタイトルをつけるつもりだったという。これはかつてタモリが披露したインチキ中国民謡(1978年のアルバム『タモリ2』に収録)のタイトルからそのままとっている。熊猫とは中国語でパンダのことだから、「アジアの純真」の歌詞の「白のパンダ」というフレーズはそこから着想を得たものなのだろう。

『いいとも!』司会者の一日
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タモリの地図—森田一義と歩く戦後史

近藤正高

2014年3月31日、『笑っていいとも!』が32年間の歴史に幕を下ろしました。約32年間、毎日テレビに出続け今や国民的タレントになったタモリ。そんな「昼の顔」だけでなく、アングラ芸で身を起こし、深夜番組『タモリ倶楽部』で披露する「夜の...もっと読む

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