かなり手遅れですが、英語の成句でも better late than never ——いつまでもやらないよりは、遅くなってもやるほうがいい——と申します。あけましておめでとうございます。
ご存じかと思うけれど、昨年暮れからこの正月にかけて、異様なピケティブームがいまだ続いている。1月最終週はピケティ本人の来日もあるので、たぶんいまがブームのピークではないかと。あらゆるメディアがネコも杓子もピケティ特集で、ぼくもしょっちゅうお座敷がかかるけれど、あちこちで同じ事しか言ってないのでちょっと心苦しい部分はある。「また同じこと言ってらぁ」と思っても、堪忍して下さいませ。同じ本について似たような質問をされて、そうそうちがう話ができるほど器用ではないもので。
さて、そんなことがあったのと、前回予告したロレンス・ダレル『アヴィニョン五重奏』(河出書房新社、1~5 )の通読に時間をとられて(あと育児は手間暇がやたらにかかる)、なかなか他の本が読めなかった……ところで起きたのが、かのイスラム国(ISIS/ISIL)の人質事件。そして、ちょうど ISIL をめぐるいろんな本が次々に出てきたところでもある。今回はそれらの本をあれこれ見てみるけれど、結論から言えば読むべき本は一冊だけ。池内恵『イスラーム国の衝撃』(文春新書)。これだけです。
もちろん、ぼくはそれまでも ISILには関心はあった。なんといっても、昨年の国際情勢の中で、ISIL は最も異様な存在感を放ったし、通常の常識をあっさり蹴倒す代物だったんだから。国ではないくせに国らしい機能を持ち、そこらの烏合の衆のテロ組織とは比べものにならない軍事力も持ち、そのくせ近代国家らしい体裁もなく、その枠内に収まろうとすらしないし、国際法的な国の要件などもまるっきり無視している。なのに、国ではないにしても何かしら実権を持った存在として多くの人が認めざるを得ない規模と力を持っていて……しかもそれが、ほんの数ヵ月であれよあれよと台頭してきたとは……。
これがどこか一地方の小さな組織というならまだわかる。一部のカルト集団や地方豪族的なまとまりが非常に閉鎖的で独立した存在として、しばらく存続するのはよくあることだから。でも、ISIL はそんな規模ではない。これは一体何なの? どうやって生まれてきたの? なぜ持続できているの? これは、日本のレベルの低い雑誌記事などでは決してわからない話だった。そのすべてを、池内恵『イスラーム国の衝撃』は、実に簡潔かつ網羅的・総合的に示してくれる。
著者の池内恵は、イスラム政治思想と中東現代政治史の研究者として非常に有能な人物だった。変な反米思想や反近代思想に冒された多くの中東学者やイスラム研究者とは一線を画す優れた研究を続けてきたけれど、それ故にかなりの反発も受けてきたらしい。でも、既存の中東学者やイスラム研究者は、今回の ISIL の台頭に対して何もまともなことが言えなかった。それは、まさにこの池内の1つの研究分野の接点に生じた希有な現象だった。
実はぼくは偶然、昨年秋にこの ISIL をめぐり池内と対談する機会に恵まれた。それは、自分なりに片手間に調べていてもまったくわからなかった様々なモヤモヤが、一気に晴れる啓蒙的な体験だった。それを是非多くの人に味わっていただきたく、その対談(というかぼくが一方的に話を聞いているだけだが)の中身をウェブでも読めるようにしたので是非ご覧あれ。そして今年になってISISによる邦人人質をめぐる事件が生じ、そのごたごたの最中に本書が登場してきたというわけだ。
短い新書ながら、ここにはあの対談の際に感じたモヤモヤの晴れる感覚のすべてが詰まっている。ISIL のイスラム教における位置づけ。アルカイダとの関係。アラブの春と呼ばれる政変が ISIL のような組織の台頭に道筋を拓いた経緯。そのメディア戦略や外国人志願者の実態。ISIL の台頭はもちろん、ある種の歴史的偶然によるものだ。でも、その偶然を ISIL はきわめて周到に利用し、イスラムの教義、現代政治の空白、各種の政変と若者たちの現代社会への失望や夢想を見事に動員して自らを成立させた。本書はそれを見事に描き出す。そして何より、なぜこの組織が始末に負えず、ぼくたちにとっても難問なのかを簡潔に明らかにしてくれる。
すごい。ぼくは今回の書評で、1人でも多くの人がこの本を読んでくれれば、それで満足。たぶん ISIL について、他の本は一切不要だろう……とは書いたものの、ひょっとしたら他にもいい本があるかもしれない。別の視点も知っておいたほうがいいかもしれない。そう思って、同時期に出てきた ISIL 関連の本をいくつか見てみたんだが……ひどい。ここまでレベルの低い本ばかりとは。
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