日本建築論

モダニズムが模索した、もう一つの日本館:第2章(3)

20世紀以降の日本建築には、「日本という国への意識」が脈々と流れています。だから、日本の建築を見れば、「日本とは何か」「日本的なるものとは何か」という問いに対峙することになる。 本連載は、伊勢神宮、国会議事堂、桂離宮、日光東照宮など、シンボリックな有名建築をとりあげ、それらを巡って重ねられてきた議論を追います。日本のナショナリズムとモダニズムの相克が、いま蘇る!

○ センセーショナルな世界デビュ—坂倉準三

 前回は、和風の屋根がのった海外にとってエキゾチックな日本館の系譜を見たが、1937年のパリ万博で坂倉準三が設計した日本館は異なる切り口を提示した。建築史家の村松貞次郎はそれを、当時の国内における帝冠様式の傾向とは別のものと評価して、「ゴールド・メダルを受賞した坂倉準三の新鮮なデザインは、近代建築の機能性・合理性の追求と日本的独自性をまとめあげた注目すべきデビュー作となった」と指摘している(『近代建築史概説』彰国社、共著、1978年)。

 この万博は、世界の状勢を反映するかのように、エッフェル塔を挟んでドイツ館とソビエト館が力強く対峙し、ル・コルビュジエの新時代館が登場したことでも知られるが、アルヴァ・アアルトのフィンランド館やホセ・ルイ・セルトのスペイン館とともに、この無名の若手が手がけたトロカデロ庭園の日本館が建築部門のグランプリに選ばれたこともニュースになった。

 坂倉がル・コルビュジエのもとで修業したことも大きいが、モダニズムの文脈において、日本の建築家による実作が海外において高く評価された初の事例と言えるだろう。なるほど、東の国から突然変異というべき傑作がいきなり出現した。

『大きな声 建築家坂倉準三の生涯』(鹿島出版会、2009年)から、当時の主要建築史家による反響を抜粋しよう。

 モダニズムを推進したジークフリート・ギーディオンは、日本館の展示物を酷評する一方、「全く解放的に建てられたパヴィリオンの中、最も美しいのは恐らく日本のそれである。……庭園とよく結合し……パヴィリオンは西洋風でありながら全く日本精神を以て貫かれて居る」と述べた。また建築史家のヘンリー・ラッセル・ヒッチコックも、陳列物は一笑に付すが、「日本館は、初期の國祭様式を思はせる形式と、過去の民族的な形式を調和させようとして居る。結果は極めて良好」であるという。

 現代の建築史家ケネス・フランプトンも、以下のように論じている。「坂倉は、そのヨーロッパでの経験を生かして国際的にも重要な作品を作り出すことができた。・・・そこでは日本の伝統的茶室の構築的な秩序が、ル・コルビュジエ風などではなく現代的語法によって解釈されている。坂倉がみせた開放的空間を重視した平面計画は、構造に明快な表現を与え、内部空間と外部空間の相互連絡のために斜路を導入し、日本の伝統的空間の秩序とは僅かながらの類似性を保っているに過ぎない」(『現代建築史』青土社、2003年)。

 なお、この本の同じ章において、フランプトンは西洋以外でモダニズムを巧みに受容した国としてブラジルも重視しているが、ブラジルも日本と同様、ル・コルビュジエの影響を受けている。そしてフランプトンは、1939年のニューヨーク世界博で、オスカー・ニーマイヤーやルシオ・コスタらが設計したブラジル館を高く評価している。すなわち、モダニズムの自由な平面を吸収しつつ、ブラジル的な地域性をとりこみ、デザインを流動性と相互貫入の新しいレベルに引き上げたものである、と。

 これが1937年のパリ万博とほぼ同時期なのは、興味深い。ともあれ、日本とブラジルは互いに地球の反対側だが、欧米中心の世界建築史から見ると、モダニズムにリージョナリズムを加えた同じような周縁国という位置づけになるのだ。


○ 日本の雑音から離れて—傑作誕生


 ここで坂倉のパリ万博日本館の詳細を見てみよう。

パリ万国博覧会日本館 1937年〔設計:坂倉準三 写真提供:坂倉建築研究所〕

 傾斜地の上に細い柱で軽やかに持ち上がる躯体。ナマコ壁を想起させる斜めの格子のスクリーン。斜路でつないだ各展示室。周囲をまわり込みながら外へと導く、浮遊感のあるスロープ。遅れて建築の道に入った35歳のデビュー作とは思えない、完成度が高い空間である。当時、坂倉は機能を満たす有機体であり、「すぐれたる建築精神」をもつ桂離宮を引きながら、日本館もパヴィリオンの機能に応えつつ、「日本の建築精神を魂として持っている建築」となることをめざしたという。そして機能と関係なく、安易な和風屋根を採用する「日本主義建築」の傾向を批判する。

「〔日本主義建築は〕建築の一つの畸形に外ならない。かかる試みに於いてその建築家は自らの建築に対する全き無理解を曝露すると同時に、實に日本文化の冒瀆者としての非難を自ら負ふべきである」(「巴里萬國博日本館について」1939年/『建築家坂倉準三 モダニズムを生きる』神奈川県立博物館、建築資料研究社、2009年)。

 実は当初、先輩の前川国男が日本館を設計する予定だった(松隈洋「パリ万博日本館をめぐって」『建築ジャーナル』2013年7・8月号に詳しい)。が、「日本文化を世界に宣揚するに足るべきもの」という要求に対して、デザインが日本的ではないという議論でもめてしまう。最終的に前川はだいぶ日本風をとり入れ、赤い漆喰の柱をもうけ、高さを求められたことに対しても塔屋をたしたにもかかわらず、万博協会の理事会は専門委員のメンバーである前田健二郎の別案を選ぶ。もともと岸田日出刀も委員として参加し、前川を推していたようだが、ベルリン・オリンピックの視察に出かけ、この決定には参加しなかった。

 しかし、フランスが求める、フランスの技師との共同作業を前田案がクリアするのが難しいことから、急遽、坂倉に白羽の矢が立った。彼はル・コルビュジエに事務所を間借りして、現地で前田案の修正にとりかかるが、結局はまったく異なるデザインに仕上げた。すなわち、日本の雑音から離れた場所において、この傑作は誕生したのである。


○「日本館設計者」の栄光と責務


 前回紹介したように、その後、前川は1958年のブリュッセル万博やニューヨーク世界博において念願の日本館を手がける。続いて大阪万博の直前となる1967年のモントリオール万博の日本館を設計したのは、アメリカで学び、東京オリンピックの施設も手がけた芦原義信だった。

 これの特徴も屋根ではない。校倉を髣髴させるPCコンクリートの組立工法による外壁。なお、半年で建設を完了しないといけない現地の気象条件や、職人が不足しているカナダの労務条件からPCの構法が選ばれた。1階はピロティとし、全体を持ち上げつつ、床レベルを下げながら、3つの展示室をつなぐ雁行の構成。庭園に対して上部の視線を遮る京都・大徳寺の孤篷庵(こほうあん)のような開口。

 芦原は、予算が足りず、全力投球できなかったことや、展示の内容が設計の後に決まったことに触れて、こう述べている。「しかしながら、われわれは、建築に関しては正攻法で、日本建築にながれている伝統と、日本の高度な建築技術を結びつけることに努力したつもりであった」(『新建築』1967年8月号)。また「日本人の体質からにじみ出たものをつくり出したいと考え……そこで左右非対称的構成とか、高所から低所へ水の流れ落ちるような構成を追求してみた」という。

 もっとも、この日本館は、次回の万博主催国として充分に目立たなかったようだ。辻野純徳の「ルポ:EXPO67」によれば、おもちゃ箱をひっくり返したかのような会場の「仮設的なものが多い中で、本格的、真面目な建築である日本館は、しかし、華やいだ空気とはほど遠く、……上品な見本市におわり、不評。エスカレーターを使った館ではもっとも入りがすくない」(前掲書)。

 そしていよいよ日本で開催された大阪万博では、日建設計が日本館を設計している。5つの円筒形のヴォリュームが連結し、万博のシンボルマークである桜の花びらのような配置だ。確かに空から見下ろすとアイコン建築的に映える建築だが、地上から見ると、ただの巨大なドラム缶でしかない。大阪万博は、丹下健三やメタボリズムの建築家が活躍したほか、外国館や民間のパヴィリオンにおいてさまざまな実験的なデザインが登場した。だが、日本館の場合、コンテンツはともかく、建築的に見るべきものがない。実際、『新建築』1970年5月号は、一冊まるごとを万博特集としているが、日本館はほとんど無視されている。

 日本館を誰に依頼するかは、政府が建築をどう考え、誰を重要な建築家と位置づけていたかを示すだろう。1992年のセビリア万博では安藤忠雄、2000年のハノーバー万博では坂茂が設計者に選ばれ、すぐれたデザインの日本館を実現した。空間性だけではなく、素材の実験を伴う両者によるパヴィリオンは、戦後の日本館の歴史において頂点に立つだろう。ともに今や世界的に活躍し、プリツカー賞を受賞した建築家だが、多くの人の目に触れたこの仕事は、彼らを海外の舞台に後押しする効果もあったのではないか。


○日本館が世界を結びつける


安藤は得意の打放しコンクリートの建築ではなく、世界最大級の木造建築に挑戦した。集成材を組み合わせた高さ25mに及ぶ4本の柱。間口が60m、奥行きが40mである。下見板張りの反りのついた外壁。柱の上部の斗栱(ときょう)、とくに大仏様を思わせる木組。テフロンの半透明膜から入る光。新しいダイナミックな巨大木造建築だ。

 安藤は、日本館をこう位置づけた。「もはや博覧会パビリオンは媚びた日本趣味や単なる先端技術の押し売り、さらには現在のこの国の混沌とした状況を開き直って提示することといった、従来のお祭り気分での見世物であってはならない。ここでは、パビリオンはむしろ日本の伝統文化と現在の先端テクノロジーが高度に洗練された場所で融合し、しかもそれが国境を越えて交流し得る可能性を提示」しなければならない、と(『新建築』1992年5月号)。

セビリア万国博覧会日本館 1992年〔設計:安藤忠雄 データ提供:安藤忠雄建築研究所 撮影:松岡満男〕

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日本建築論

五十嵐太郎

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市...もっと読む

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okuno_ao https://t.co/POjBHEfZTD https://t.co/beT0ctsF6i 約3年前 replyretweetfavorite

ynwa20110311 |日本建築論|五十嵐太郎|cakes 機能と関係なく、安易な和風屋根を採用する「日本主義建築」の傾向を批判 https://t.co/H2LlV1NpAD 4年以上前 replyretweetfavorite

consaba 設計者の選定――第2章(3)万国博覧会における<日本館らしさ>センセーショナルな世界デビュ——坂倉準三 | 5年弱前 replyretweetfavorite