どうして子どもはアニメを理解できるのか、長らくふしぎにおもっている。まだまともに字も読めないような小さな子どもが、ごく当たり前にアニメ番組をたのしんでいる状況が奇妙でならないのである。なぜならアニメは、さまざまな記号的表現にもとづいて作られる、抽象性の高い伝達手段であるためだ。
たとえば「眉間に縦線が入るのは怒りの表現」といった約束事を、子どもはどのようにして学ぶのだろうか。また、誰にも教わらずに「ひたいに描かれた大きな水滴のマークは汗の記号であり、登場人物の焦りを示している」といったルールを察知できるのはなぜか。アニメを見るのが子どもにとって容易なのは、どういう理由なのだろうか? 現実に子どもはごく自然にアニメを見ていて、内容もきちんと理解できているのだけれど、その仕組みがどうもすんなりとは腑に落ちないのである。子どもが、まずは現実を抽象化させた表現(絵本、アニメ)から物語の受容を始めるのは、妥当であるような気もするし、なにかあり得ないことのようにもおもえる。
初めて『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(’84)を見た13歳の私は、「これぞアメリカ映画だ!」と興奮のきわみに達していたが*1、あらためて考えてみれば、これはいくぶん不可解な話である。なぜなら『インディ・ジョーンズ』シリーズ(’81 – ‘08)は、アメリカの土地を舞台にしていないからだ。これほどにアメリカ的な映画はないと感じていたが、そもそもスクリーンにアメリカの土地はほとんど映っていなかったのである。
劇中、考古学者インディ・ジョーンズが財宝を巡る冒険を繰りひろげるのは、エジプト、香港、インド、トルコ、ペルーといった国々だ。美術やセットもオリエンタリズムを強調しており、エキゾチックな冒険が特徴とされるシリーズである(わけても『魔宮の伝説』における、グロテスクな素材を使った料理が次々とテーブルに並べられる会食シーンは、いささか悪趣味なリゾート映画といった雰囲気で、このシリーズのイメージを決定づけている)。アメリカのほとんど出てこない映画を見ながら、まだ子どもだった私は、いったいどこにアメリカらしさを感じていたのだろうか。
思い起こせば、私はアメリカのことなど何も知らない子どもだった。13歳の自分が知っていたアメリカ文化といえば、せいぜい『E.T.』(’82)とマイケル・ジャクソンぐらいだったようにおもう。マーク・トウェインやハーマン・メルヴィルを読んだこともなければ、西部劇を見たこともなく、『スター・ウォーズ』(’77)すら知らなかった。当時の私にとってのアメリカとは、「カッコいい音楽やブレイクダンスが流行している、大きくて陽気な国」といったあいまいなイメージにすぎなかったようにおもう。そんな子どもが感じたアメリカらしさとはいったい何だったのか。
大学で考古学を教える中年男性の映画に(シリーズ1作目が発表された81年、ハリソン・フォードはすでに39歳であり、若者とは呼べない年齢だった)、なぜ日本人の子どもである私は強く反応したのだろうか。インディ・ジョーンズが、いかにもアメリカ映画のヒーロー然として見えた理由を順序立てて考えてみることは、本シリーズにあらわれるアメリカという国の姿を理解する手立てになるかも知れない。
主人公を演じるハリソン・フォードの、どこか飄々として軽みのあるキャラクターや、彼の身につける帽子や牛追いムチといったアイコンにももちろん強く心惹かれたが、あらためて考えてみれば、インディ・ジョーンズの魅力とは、アメリカ的価値観が勝利する心地よさそのものであったといえる。ナチスのたくらみを粉砕し、奴隷としてとらわれた子どもたちを解放するインディ・ジョーンズは、アメリカの理想である自由とデモクラシーの体現者だ。映画を通して、観客はアメリカの掲げる平等や快楽主義、勝利することの心地よさに酔う。そうした主人公の姿は、まるでアメリカが服を着て歩いているようだと、かつての私は感じていたのだろう。作品は暗に「アメリカとはいかにすばらしい理想を持つ国か」というメッセージを発しており、子どもの私は無知ながらも、主人公を通してアメリカの魅力に反応したのだった。
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