「視覚障害者は申し訳なさそうに生きるべき」!?
冷泉彰彦(以下、冷泉) 渡辺さんの『どうせなら、楽しく生きよう』、「楽しく」拝読させていただいたきました。
渡辺由佳里(以下、渡辺) ありがとうございます。
冷泉 読むのはすごく楽しかったのですが、その一方で、途中からずしんと重たい問いかけを感じながら読んでいました。
渡辺 「ずしんと重たい問いかけ」とはどういったことでしょうか?
冷泉 アメリカでもそうなんですけれど、特に日本で、ネガティブな言葉のやりとりが増えている、そんな現象の存在について、痛感させられました。 心の中になにか暗いものがあって、その暗い感情が、怒りになったり、ねたみになったりして衝動的な言葉や行動が出てきてしまう、そんな話が増えているように思うんです。嫌な事件やエピソードを掘り下げていくと、全部それに結びついていているようです。
渡辺 たしかに、最近のソーシャルメディアでのやりとりを見ていても、嫌な気分になるものが増えてきたと感じます。
せっかく楽しく生きられるのに、わざと苦しい生き方を選び、周囲の人々まで苦しくさせているような現象ですね。
冷泉 渡辺さんの本の趣旨としては、ひとりひとりがそれに気づいて、「どうせなら、そうじゃなくて、楽しく生きようよ」というメッセージを書かれていると思うんです。
でも、どうせなら楽しく生きられるのに、楽しく生きられないようにしているものについてお話したいんです。たとえば、一番最近の話題で言うと、とても嫌な話なんですけれど、視覚障害者の方が盲導犬を連れて歩いていると、こっそり盲導犬を突き刺すといういたずらがありました。
渡辺 私もそれをツイッターで見かけました。詳しい内容は知らないのですが。
冷泉 この事件自体には、そもそも刺されていなかったのではないか、などいろいろな報道が後から出たのですが、SNS上でこういう声を見かけたんですよ。「視覚障碍者は犬をつれて歩いていてとっても偉そうで、優遇されている。だけど、私は、若くて仕事もなくて苦しくって、もう自殺も考えたことも何度もある、自分と比べてあの人の苦しみって、全然たいしたことがないと思うのに、私には何の特権も許されていない。これは大変な不公平だ。だから、ブスッと突き刺した気持ちはよくわかるんだ」と。
渡辺 そんなことを言う人もいるんですか。
冷泉 ええ。それで、そういう感想を持つ人は「だけどもさすがに自分は突き刺さないから、せめて、社会的に弱者と認定されている人たちは、既に特権階級なんだから、その特権をよく認識して、もう少し申し訳なさそうにいてほしい」っていう意見を主張するんです。全然間違っているんですけれど、どうやって説明したら「間違っている」ということを納得してもらえるか、というのがとっても難しくって。
渡辺 それは難しいですね。
冷泉 乙武洋匡さんの一件もありました。行きたいレストランがあって、階段を上らないといけなくて、車いすを運ぶのを手伝うよう頼んだが、入店拒否されてしまったと。それを彼がツイートしたら、ものすごく炎上して、乙武さんに対してものすごい非難の意見が来たんですよ。 例えば、乙武さんは、障碍によって世に知られて、すごい有名人になり、お金も持っているのだから、零細な中小企業であるレストランに対する攻撃をする権利はない、っていうような意見ですね。