私たちは「iPhoneが欲しいこと」を予測できたか?
——イノベーションは予測できないと。
小飼 結局、わからないのは「どうなる」ではなく、「どうしたい」なんでしょう。
——どういうことでしょう?
小飼 iPhoneが四半期にどれだけ売れるのかについては、たくさんの人達が高い精度で予測できています。けれど、それはiPhoneがいったんできてしまってからの話です。
我々がiPhoneを欲しかったということは、iPhoneが登場するまでわかりませんでした。スティーブ・ジョブズ(故人)が「iPhoneが欲しい」と思わなければiPhoneは生まれず、私たちがiPhoneを欲しいと思うこともなかった。こうした人間の意志がどこから来るのかは、まったく説明ができません。
神永 技術的進歩というのは、そういうことだらけで、本当にわからないですよ。
小飼 食べ物の好みもそうかな。どうして日本でラーメンやカレーがこれほど発展したのに、チーズはあまり発展しなかったのか。後付けはいくらでもできるでしょうけど、本当のところはわからないでしょう。
神永 私は企業でICカードのセキュリティ技術を開発していたのですが、専門家の立てる予測は面白いほど外れましたね。
その企業に入社したころ、担当部署の人間は「みんないちいちお金を持ち歩くのは嫌だろうから、これからはICカードの時代がやって来る」と予測していました。私もまあそれはそうだろうと。さらに、その担当部署の人間は「今はたくさんのクレジットカードを持ち歩かないといけないが、ICカードになれば1枚にまとまるからこんなに便利なことはない」と言う。
その時は僕も納得していたのですが、実際ICカードが普及してみると、1枚にまとまるどころか、むしろ以前より持ち歩くカードの枚数は増えています。
——人が何を好むか、どう動くのかは予測ができないんですね。
神永 ICカードはある程度普及したわけですから予測がまったく外れたわけでもないですが、思っていたのとはずいぶん違いました。
ちょっと細かい技術的な話になりますが、私がICカードの開発に携わっていた当時、ICカードに使われるOSは3種類ありました。1つはMULTOSで、独自言語を使ってプログラムを書く必要がありましたが、当時の8ビットCPUで高速に動作しました。私が担当していたのはこれです。2つ目はJava Cardで、現在はこれがMULTOSと並んで広く使われています。3つ目は、マイクロソフトのWindows for Smart Cardsでした。業界の専門家は、マイクロソフトが参入してきたからにはもうOSのトレンドは決まったと予測したんですが、私が企業で働き始めてからしばらくして、あっさりマイクロソフトは撤退してしまいました。儲からないからという理由で(笑)。
残ったのは、MULTOSとJava Cardの2つです。8ビットCPU上では、MULTOSは動作が高速だけれど、Java Cardは遅い。Java Cardは劣勢だと思われていました。今から振り返れば、CPUはどんどん高速化していくに決まっているのだから、独自言語を使って8ビットCPUで高速に動くMULTOSより、開発者人口も多いJava Cardが有利に決まっていると思われるかもしれませんが、業界に最初からいるとそれがわからない。技術にも業界事情にも誰より通じている専門家たちが、「トレンドはこうなっていて、うちはここに強みがある。この分野に参入したら勝てる」というレポートを出すのだけど、まったく当たりませんでした。
コンピュータの進化が教える真実
小飼 いや、「専門家なのに」ではなく、「専門家だからこそ」わからないのでしょう。専門家は、自分の持っている知識を無視して「俺はこれが欲しい」と言えません。自分の持っている知識が、逆に足かせになってしまうんです。
物理シミュレーションの分野は、まさにそうでしたね。コンピュータの専門家からすれば、コンピュータ上で物理シミュレーションを行うなどというのはとんでもないことでした。分子1個1個の動きを追いかけようとすると、計算量が膨大になって不可能だというわけです。
けれど、物理の研究者は、とにかくシミュレーションをやりたくてあれこれと工夫をしました。シミュレーションといっても、現実と同じ数の分子ではなく、「十分多い」分子の動きを追えればいい。そして分子間の相互作用の式というのはすでに決まっているので、どんな式でも式を書けば計算してくれる汎用のCPUではなく、それしか計算できない回路を作ればずっとはかどる……といった具合に、「物理シミュレーションがやりたい」という意志があったから、その目的を達成するための技術が生み出されたのです。
中でも僕が感動したのは、GRAPEプロジェクト(杉本大一郎、戎崎俊一、牧野淳一郎らが1989年に完成させた1号機、GRAPE-1の開発費はわずか20万円)ですね。天体の重力相互作用を計算するために、特定の計算だけを行う安価な専用ハードウェアを開発して、当時のスーパーコンピュータ以上の性能をたたき出しました。
神永 暗号の分野でも、同じようなことがありました。
1977年、『Scientific American』誌に、読者への挑戦として129桁の鍵を使った暗号文、通称RSA129が掲載されました。暗号の詳しい仕組みについては省略しますが、要は10進法で129桁という巨大な数を素因数分解できれば、この暗号文を解くことができます。RSA暗号を開発したロナルド・リベストは、125桁の数を素因数分解するには2万年かかると見積もっていましたから、129桁の鍵を使った暗号は事実上解読できないだろうというわけです。
小飼 当時のコンピュータを使って総当たりで解を求めようとすると、実際それくらいはかかったんでしょうね。
神永 ところがRSA129は、1994年4月に1600台のコンピュータを使って、あっさりと解読されました。
——コンピュータの進化のスピードを予測できなかったと?
神永 ハードウェアとしてのコンピュータの進化を予測する有名な経験則としては、「ムーアの法則」があります。これは「半導体の集積密度は18~24ヶ月で倍増する」というもので、大ざっぱに言えばコンピュータの性能は1年半から2年ほどで倍になるというものです。
小飼 現在のトレンドは、処理性能よりも、省電力を目指す方向に向かっていますけどね。
神永 確かに「ムーアの法則」はもうすぐ成り立たなくなるとも言われていますし、次世代トランジスタの研究も進んでいます。それでもこれまでのところは概ね「ムーアの法則」に則って、コンピュータは進化してきました。コンピュータのハードウェア性能が数年後にどうなるのかということは、まあまあの精度で予測することが可能です。けれど、どういう計算手順で処理を行うのかという、アルゴリズムの進歩に関してはまったく予測ができません。
答えは意外と簡単だった!?
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