なぜ見解が無数にあるように「見える」のか
農業の話を締めくくるにあたり、放射線の問題について前回から触れています。
色々な人と福島のことを話す上でぶつかる壁に、「福島難しい・面倒くさい状態」というのがありますが、そもそもなぜ「福島難しい・面倒くさい状態」となってしまったのか。
それは、「情報がただの情報としてダラダラ垂れ流される状態が続いてきてしまったから」。それを理解するためには、「情報と知識の違い」を意識する必要があるでしょう。
例えば、「辞書読め!」とか「タウンページ読め!」と言われたらキツイですよね。
「フランス語を身につけたいと言ったんだから、まずフランス語辞書を全部読むぐらいするべきだ」とか、「お前、この地域を理解したいと言っただろ! タウンページには地域の情報を極めて網羅的におさえているんだ」とか言われても、「たしかに、そうかもしれないような、でもたぶんそうじゃないでしょう」というような感覚でしょう。
実際、大方の人は、語学の習得・地域の理解という明確な目的があっても、そういう拷問みたいな方法はとらないはずです。
いや、昔の偉い人の中には、語学習得のために「絶対に知識を血肉化しようと、毎日辞書を1ページずつ読んではそのページを破って捨てた」という人がいたと聞いたことがありますが、たぶん、今日において、そういう仙人みたいな人もなかなか残っていないのではないでしょうか。
「情報」を「情報」のままに大量に目の前に置かれても、人間は苦痛を感じるだけです。
「情報」が存在すること自体は重要ですが、「情報」があるからといって理解が進むわけではありません。大量の情報を入手し、それを俯瞰したところで、その実態・全体像を理解できるわけではない。
むしろ、情報が過剰にある中で、適切な理解をする可能性が下がることもある。
じゃあ、どうするか。ばらばらの情報を体系化・構造化し、必要な情報を選び・並べ、「知識」としていく必要があります。バラバラの情報を体系的な知識に変えることではじめて、効率的な理解が進みます。
なぜ、「福島難しい・面倒くさい状態」が続いているかというと、これにつきます。情報は大量に流通してきたけど、「情報の知識化」が進んでこなかったわけです。
もちろん、ある部分ではそれなりに「情報の知識化」が進んできました。
例えば、前回までに見てきたように、1)農業関係者はじめ一次産業関係者の間では、この事態にどういう対応をすべきかという「農業に必要な知識」が相当共有されてきています。
あと、2)「TwitterとかFacebookとか見るといる、ずっと『実は福島はヤバい』って言い続けている人」はじめ、強く被曝回避を望む人の中でも、これもまた「被曝がどれだけヤバいかという知識」が共有されてきました。
「○○先生がこう言っているから」なんていう、その方たちにとってのカリスマ型のリーダーがいたりします。
さらに、3)早期から福島に入り土地や身体についての放射性物質の状況を丹念に見ようとする研究者や報道関係者などを中心に、「どうやら福島の状況は、広島や長崎の原爆による被曝やチェルノブイリの原発事故後の状況とはだいぶ違ったものとしてとらえていかなければならない」などと、「データに基づいた福島の実態の解明と理解の促進、誤解の払拭を指向する知識」も共有されつつあります。
ただ、これらいくつかの「情報の知識化」をしているゆるいグループのようなものがあるものの、これは「普通の人」からしたらいずれも近づきづらかったりする。
ずっと「ベクレル」とか「シーベルト」とか言ってるし、「セシウムだけじゃなくヨウ素やストロンチウムやプルトニウムやトリチウムもあって」とか、「甲状腺がんが増えてる!」vs「いやいや、甲状腺がん検査での過剰診断・過剰診療のほうが大問題」とかいう対立構造があるらしいが、もはやわけがわからない。
「WBC(ホール・ボディ・カウンター)では出ないかもしれないけどね、尿検査したら出るんですよ」とか言われても、「WBCって、ワールド・ベースボール・クラシックじゃないんですか?」と言いたくなるけど言えない。なんか、語っている人たち相当マジな感じだから、と。
その「近づきづらい感覚」というのは真っ当な、普通の感覚だと思います。
そこで交わされている会話は、普通に理系大学院修士課程レベルの議論だったりする。それを老若男女問わず扱わなければならない状況というのは、キツイ状態です。
「放射線については見解が無数にあるように見える」ことも、人を遠ざけている要因でしょう。
実際は「見解が無数にある」わけではないんです。見解の相違は、先に述べたとおり、3年以上たっていくつかの「情報の知識化」をしてきたグループに収斂されてきているというのが現状でしょう。
ただ、その見解の相違を俯瞰して理解するのには、それなりの勉強が必要です。勉強しないと、「見解が無数にあるように見える」。
その中で、あまり知識がない人にとって「わかりやすい」のは極端な議論だったりして、そういうのを不勉強な文系学者やメディアが誇張して報道し、それに違う見解を持つ人が反発して、みたいなことが続いています。
福島問題の「ローコンテクスト化」に取り組むべし
そんな中で重要なことは2つあります。
一つは、先に出したようなものを含めていくつか存在する、福島の放射線についての議論を牽引してきた「情報の知識化」の動きを軸に、科学的な視点を忘れずに今後も知見を積み重ね、議論を進めていくべきだということです。
科学的な議論が進むほどに知識は洗練されていくことになるでしょう。「洗練された知識」ができていくことで、農業にせよ、健康管理にせよ、具体的な施策が生まれてきます。
ただ、それだけでは足りない。
もう一つは、逆の方向です。「洗練されすぎていない知識」も作っていくべきなんです。
「洗練された知識」というのは洗練されるほどに、普通の人が参入するハードルが高くなる。
「WBCって、ワールド・ベースボール・クラシックじゃないんですか?」と言う人に対し、「いや、普通そう思いますよね。それでも福島の放射線のこと語っていけますよ」と言えるような、「洗練されすぎていない知識」を用意すべきです。
本連載は後者を目指しています。それは「福島難しい・面倒くさい状態」を解除するための「ローコンテクスト化」であると言い換えることができるでしょう。そして、3・11から5年目に向かういま、「福島問題のローコンテクスト化」は多くの人が取り組むべき大きな課題です。
「ローコンテクスト」というのは、アメリカの文化人類学者エドワード・ホールが1976年に出版した『文化を超えて』で提示した概念で、対義語は「ハイコンテクスト」です。
「ハイコンテクスト」というと、「難しい文脈」とか「洗練された文脈」っていう意味かと思っている方もいるかもしれませんが、ちょっと違います。
ここまでの文脈にそってわかりやすく言うならば、「ハイコンテクスト」とは、文脈の理解のために「前提知識」や「複雑性」の理解を要求されることを言います。
「ローコンテクスト」とは、逆に、「前提知識」や「複雑性」の理解が必要ないことを指します。
イスラム教も福島も「ローコンテクスト化」に失敗してきた
例えば、イスラム教について理解することは簡単ではない。近年、この問題はますます難しくなっている。これは「ハイコンテクスト」になってきているとも言えます。
イスラム教徒は1年に1度、日が出ている間に断食をする期間=ラマダンを定めています。この習慣を知らない人からしたら「なんで?」という話でしかないが、イスラム教徒にとっては「そういうものだ」という「言わずもがななこと」でしかない。
もちろん、宗教的な理由を突き詰めていけば色々あって、それを理解するのにはかなりの前提知識が必要になる。
少なくとも、ラマダンの時期に日が出ている間にものを食べるのはイスラム教徒的には悪しきことなので、一緒にいたらその習慣に気づかいをしなければならない。最近は、イスラム教徒の中には、スマートフォンにラマダンのアプリを入れていることもあって、ご飯を食べていい時間になると携帯から音がなったりもします。
彼らと直接関わることで、「なるほど、みんなしっかり守っているんだな」と、彼らの生活についての「前提知識」をだんだんと得ていくことになります。
などと思っていたら、中東ではなく東南アジアのイスラム教徒と話していると、人によって「ラマダンを意識するのは、長くても最初の5日だけですね」とか言って、普通に日中にご飯食べていたりする人もいる。「砂漠のイスラムと私たちのイスラムとは違う」とか言われる。
複雑だな、多様すぎてよく分からないな、と思わされる。これ、「ハイコンテクスト」なわけです。